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2026年10月09日07:16

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝��1976年の新日本プロレス(9)

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モハメド・アリとアントニオ猪木の「20世紀最大のスーパー・ファイト」の調印式の模様はUPI、AP、ロイター等の各大手通信社、ニューヨークタイムス紙、ニューヨークポストと言った新聞社等米メディアでも取り上げられました。

日本の76年3月28日付(27日発行)の「東京スポーツ」では桜井康雄特派員によるロマン溢れるファンタジープロレス頭全開となったアリvs猪木調印式一夜明けレポートを50年の歳月を経てその一部を再録しましたのでじっくりとお読み頂きたいと思います。

「一夜明けたらアントニオ猪木はアメリカ中の英雄になっていた。記者(桜井氏)はアメリカにいたからアメリカ中の英雄と感じたのだが、おそらく猪木は3月25日(日本時間26日、76年)という歴史的な日を境として世界中の英雄になっていたのではなかったか…。

『アリのビッグマウスも猪木の笑いを止めることはできなかった。アリは言葉のパンチで猪木の顎を割ろうとしたが、猪木の不思議な迫力に圧倒されて、それは不発に終わった。アントニオ猪木というレスラーは精神的なパンチでアリを圧倒し、記者会見の席上でアリを敗北せしめた。』

26日付のニューヨーク・タイムス紙にはこう書いてある。

3月26日の朝から猪木は新聞社やテレビ局の取材攻勢にてんてこ舞いになった。

猪木が宿泊先のホテルを一歩出るとタクシーがキキキと急ブレーキをかけて運転手が顔を出した。

『ハイ、トニー(アントニオの略称)…アリに勝てよ。』

道端を歩けば道行く人々が次々と握手を求め、サインを求める。

セントラルパークへ入って行けば課外授業をやっていた約200人の中学生が『アリと闘うアントニオだ。トニーだぞ』とどっと猪木を囲んでもみくちゃ。

セントラルパークの前に泊まっている馬車の馬主は『ヘイ、トニー、俺の馬車に乗ってくれ、一生の記念だ』とすすめ、屋台を出しているホットドッグ屋とアイスクリーム屋は『食べてくれよ、トニー』と持ってくる。

『アントニオ』から『トニー』とアメリカ人から呼ばれるようになったアントニオ猪木の人気はまさに本当の本物である。

午後はテレビ局へ。アメリカでも有名なジョニー・カースンショーに出演。スタジオから帰って来ればまたアリ側との話し合いが続く。

27日まではこの繰り返しだ。28日はアメリカンエアラインでニューヨークからロサンゼルスに向かった。」

いきなり車のブレーキをキキキという音まで立てて猪木を見に来たタクシー運転手は猪木の泊まっているホテルを知っていたのか?

200人の人数と「中学生」と一目見てわかる慧眼、馬車の親父やホットドッグ、アイスクリーム屋の露天の店主隅々にまで、「トニー」の名前は浸透していたのです。

もちろん、映像はなく、写真は残っていますがとても200人もいるとは考えにくい…。

桜井氏の筆力にはただ圧倒されるのみで、ニューヨークタイムスの記事も猪木に偏り過ぎなのは明らかですが、読んでいて本当にその場にいるような臨場感が伝わって来て想像力を掻き立てられました。

これが創作であろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい次元の話でまさに桜井氏の真骨頂と言っていいかと思います。

アリvs猪木の狂騒曲が鳴り響く新日本プロレスですが、一方で国内のマットについてはどうだったか?

新日本プロレスと全日本プロレスの引き抜き抗争と言えば81年5月のアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス移籍から始まっている感が強いですが、それ以前にも引き抜きがなかった訳ではありません。

前回、ビル・ロビンソンが新日本プロレスから全日本プロレスへ移った経緯を書きましたが(76年7月に全日本へ登場)、他にも細かい引き抜きや移籍はありました。

大木金太郎は75年5月まで新日本プロレスに上がっていましたが、同年10月には全日本プロレスへ引き抜かれて行っています。

大木は73年4月に日本プロレスが崩壊すると他の残党達と一緒に百田家(力道山家)、日本テレビの仲介で全日本プロレスのリングへ。

しかし扱いに不満を持ち同年12月の「ジャイアント・シリーズ第2弾」を最後に全日本プロレスから離れ1人韓国に帰りました。

そこに目を着けたのが新日本プロレスの新間寿営業本部長。大木を口説き落として新日本プロレスのリングに上げ、大木は猪木に挑戦、74年10月10日蔵前国技館で猪木と大木のNWF世界ヘビー級選手権試合が行われ、13分13秒、猪木がバックドロップからの体固めで勝利。

翌75年3月27日今度は場所を大木の母国である韓国に移して、ソウル市奨忠体育館で猪木が大木のインターナショナル王座に挑戦。

猪木はアウェイでヒールを意識したキラーぶりを見せ、大木の額を鉄柱に打ち付けて流血させ、流血した額にナックルパンチの連打。

大木の得意技でもある足4の字固めを見せましたが、大木は身体を回転させて場外へ。13分38秒、両者リングアウトとなり大木の防衛。

それから1週間後の4月4日蔵前国技館での第2回ワールド・リーグ戦開幕戦で公式戦で3度目の一騎討ち。

この試合、何故か試合前に猪木のリングシューズの紐がほどけており(テレビカメラでもしっかり確認出来る)、紐を結ぼうとしたところ突っ込んで来た大木がヘッドバットの奇襲。

リング下に転落した猪木を追って大木は猪木の髪をつかんでヘッドバット連発、猪木は大木のボディにパンチを叩き込みましたが大木の頭突きラッシュを止めることは出来ず。

大木はリングに生還、1分16秒、リングアウト勝ち。結果、このリーグ戦の最中に猪木に大木へのリベンジの機会はなく、内容はともかくスコアの上では1勝1敗1分と完全に五分。

これは最後に大木が「勝ち逃げ」しているのが大きく、馬場がずっと狙っていたインターナショナルのベルトをこのままいけば新日本プロレスに持って行かれることを懸念、大木を外敵として全日本に戻すことを画策しています。

9月23日大韓プロレス協会の権五台会長の招きで韓国マット視察に訪れた馬場を大木が待ち構えていて夜中に食事しているところへ挑戦を直談判するというアングルが組まれました。

10月30日蔵前国技館で馬場vs大木戦が実現。これまでの馬場vs外国人のPWFヘビー級王座を賭けての試合では満員に出来なかった全日本の東京の大会場での興行を超満員札止めにして見せました。(12,000人発表)

馬場と大木の試合はノンタイトルの時間無制限1本勝負。ブッチャーにジャンボ鶴田が挑戦したPWF認定USヘビー級選手権試合とのダブルメインイベントの第1試合として行われました。

つまり、タイトルマッチの前のセミファイナル扱い。試合は6分49秒、馬場がランニング・ネックブリーカードロップからの体固めで完勝。猪木が初戦で大木を倒した約半分の時間で仕留めて見せました。

この試合を実況した清水一郎アナウンサーは「新日本プロレスのアントニオ猪木と1勝1敗1分の五分の成績」と強調し三段論法的に馬場の方が猪木より強い、格上であることを暗に示唆。

格下の相手とやるのにタイトルは賭ける必要はなく、ダブルメインイベント第1試合(セミファイナル)で十分、という馬場のえげつなさが見て取れます。

その後大木は76年8月のNWA総会で猪木が3年目にしてようやく加盟が認められたNWAに「馬場の推薦で」一発で「満場一致」で加盟が認められ、弟子のキム・ドク(戸口正徳)との韓国師弟コンビで馬場&鶴田組から2度に亘りインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどのメリットを受けています。

そんな中、76年4月2日川崎市体育館で開幕した第3回ワールド・リーグ戦には2年前の74年5月、全日本プロレスにエース格として来日した元WWWFヘビー級王者、ラテンの魔豹ペドロ・モラレスが新日本プロレスに初参戦、しかも短期の特別参加ではなく公式戦に参戦するという新日本プロレスのファンにとっては明るいニュースが入って来ました。

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