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2026年09月27日11:33

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝��日記でもう一度おさらいしよう!謎多きアジア・リーグ戦(12)

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76年新日本プロレス「アジア・リーグ戦」最終戦、8月5日、蔵前国技館(観衆8,800人発表)大会。メインイベントはアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級王座に初代アジア・ヘビー級王者であるタイガー・ジェット・シンが挑戦。TJシンは真新しいアジア・ヘビー級のベルトを腰に巻いてサーベルを片手に入場。猪木はモハメド・アリ戦で初着用した青紫の地にオレンジの襟、背中に鳳凰を刺繍した鮮やかなガウンで入場。

試合は時間無制限1本勝負。TJシンの奇襲攻撃で猪木は脇腹を痛め、精彩を欠く動きとなりました。TJシンの足を取って反撃に出た猪木は足を折り畳んでの足4の字固め。しかし、これは上手く逃げられて場外に乱闘に、脇腹を痛めていた猪木はなりふり構わず場外でTJシンを胴絞め式スリーパーホールドに捉え、場外心中作戦、12分43秒、両者リングアウトの引き分けで辛くも4度目のタイトル防衛に成功しました。

試合後、国際プロレスのリングに上がっていた上田馬之助が私服姿でリングに上がり、猪木に挑戦を表明。胸ポケットから出した挑戦状で猪木の横っ面を張る挑発行為に出て、怒りの猪木は上田に襲いかかり、上田のシャツをビリビリに破って乱闘となりましたが、負傷箇所である脇腹を上田に蹴られてガクッと膝をついてダウン。乱闘は猪木の劣勢で終わりました。

ここで、国際プロレスに参戦していた上田が猪木に標的を絞り、新日本プロレスのリングに乗り込んで来た経緯について解説しておきたいと思います。

72年、猪木、ジャイアント馬場が相次いで離脱、坂口征二、大木金太郎が2枚看板、吉村道明が脇を固め、上田、グレート小鹿、松岡巌鉄、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)らがその次のポジションにいましたが、5月に日本テレビから放送を打ち切られNETの中継のみとなり観客動員、テレビ視聴率も低下。

最初から日本テレビの放送が付き、力道山家(百田家)から正統の系譜のお墨付きをもらい、豪華外国人を招聘して旗揚げした馬場の全日本プロレスとは対称的に、全日本プロレスより半年先に旗揚げしておきながらノーテレビで大物外国人レスラーを呼ぶルートも資金もなく苦戦していた猪木の新日本プロレス。

73年1月、NETの三浦甲子二常務が猪木、坂口を呼び、「もうお前達、一緒にやれ!」と日本プロレスと新日本プロレスの合併案を指示。新日本プロレスを発展的解消、日本プロレスを存続会社として社長に猪木、副社長に坂口が就任、芳の里日本プロレス社長は勇退しNETが「新・日本プロレス」を放送することで合意。73年2月8日には新宿・京王プラザホテルでマスコミを入れて「新・日本プロレス」発足会見を行っています。

しかし、これに異を唱えたのが選手会長で会見時韓国に帰っていた大木金太郎。大木は2月16日後楽園ホールでの「ダイナミック・ビッグ・シリーズ」の開幕戦の試合前の控室で「自分の知らないところで勝手に話が進んだ。力道山先生の遺した日プロを売るような真似は出来ない」と真っ向から反対しました。

これより1年2か月前の71年12月、日本プロレスは猪木を「会社乗っ取りを企てたクーデター犯」として追放・除名処分としており、日本プロレス内にも猪木に敵意を持っている選手は多く、合併案は頓挫しました。

坂口は若手の小沢正志(キラー・カーン)、木村聖裔(たかし、健吾)、大城勤(大五郎)とレフェリーの田中米太郎を連れて猪木の新日本プロレスに合流することを決意。

このシリーズ、2月22日大阪府立体育会館で坂口はジョニー・バレンタイン&キラー・カール・クラップ組に敗れ、大木と組んで保持していたインターナショナル・タッグ王座から転落、3月2日横浜文化体育館でJバレンタインに敗れUN王座から転落。吉村と組んで保持していたアジア・タッグ王座は、3月3日大阪・近畿大学記念講堂で吉村が引退試合(ルーベン・ファーレスに勝利)を行った為返上と、猪木が日本プロレス時代に巻いていた3つのベルトを10日余りで根こそぎ剥がされてしまった訳です。

返上されたアジア・タッグ王座は近代記念講堂でグレート小鹿&松岡巌鉄組が王座決定戦でクラップ&クルト・フォン・スタイガー組を破って王座獲得。

上田は大木にパートナーに指名されて3月6日、愛知県体育館でJバレンタイン&クラップ組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。国内ではタイトル初戴冠でした。3月8日栃木県佐野市民会館では高千穂がJバレンタインを破りUN王者に輝きましたが、上田、高千穂からすれば「上が抜けてお鉢が廻ってきた」に過ぎず、実力で取ったベルトでなかったことは百も承知でした。

坂口が抜けた日本プロレスにNETは見切りをつけ、4月から「ワールドプロレスリング」は新日本プロレスの中継を開始。

大木、上田、高千穂、小鹿、松岡にミツ・ヒライ、桜田一男(ケンドー・ナガサキ)、羽田光男(ロッキー)、伊藤正男の当時国内にいた日本プロレスの「残党」9人は、選手会の運営で4月13日、大阪府立体育会館からフリッツ・フォン・エリック、クラップ、ゲーリー・モンティ、ジ・アラスカン、クラッシャー・リバース(ホセ・リベラ)を招いて「アイアンクロー・シリーズ」を開幕させました。

開幕戦では大木がエリックとインターナショナル王座防衛戦を行い、1−1から両者リングアウトで2度目の王座防衛に成功していますが、ここで日本プロレスは力尽き翌4月14日に力道山が眠る大田区の池上本門寺の力道山のお墓の前で記者会見が行われ、日本プロレスは「アイアンクロー・シリーズ」を最後に興行活動を停止。

大木以下日本プロレスの残党9人(当時海外に行っていた星野勘太郎、永源遙、安達勝治=ミスター・ヒト、戸口正徳=キム・ドク、タイガー戸口は対象外)は力道山家(百田家)の仲介により馬場の全日本プロレスに合流、移籍することが発表されました。

4月17日後楽園ホールではアジア・タッグ選手権試合が行われ、小鹿&松岡組がクラップ&モンティ組を破り王座初防衛。4月19日横浜文化体育館では高千穂がクラップを破ってUN王座初防衛に成功。4月20日、群馬県吉井町体育館のシリーズ最終戦で、日本プロレスは19年の歴史に幕を閉じました。

大木以下日本プロレスの残党9人は6月30日埼玉県行田市民体育館で開幕の「サマー・アクション」(この時は名称に「シリーズ」が付いていない)から全日本プロレスに合流。

早くもひと悶着あり大木が「対等合併と聞かされていた」と処遇にゴネれば、馬場は「潰れた会社が対等な訳ないだろう」と反撃し最初から不協和音が流されていました。地方でも知名度が高く、集客力のあった大木はそこそこの扱いでしたが、上田、松岡は前座の扱い。

上田は「創立1周年記念ジャイアント・シリーズ」10月9日蔵前国技館大会を最後に松岡と共に全日本プロレスを離脱、フリー宣言してアメリカに渡り、仲の良かったリップ・タイラー、エディ・サリバンのいるフロリダ州ペンサコーラを中心にヒール「プロフェッサー・イトー」として活躍。松岡はその後消息不明になっています。

上田は全日本プロレスと合流した時に、全日本プロレスと3年契約、同時に日本テレビとも3年契約を結んでおり、その間、日本の他団体のリングには上がれないことになっていました。大木は73年11〜12月の最終シリーズである「ジャイアント・シリーズ第2弾」まで全日本プロレスに出場し、74年には韓国に帰国しましたが新日本プロレスの誘いにより新日本プロレスに参戦し、75年には全日本プロレスに外敵として出戻り参戦するなど上手く立ち回りましたが、上田は契約を守って日本には戻らず。

3年契約が切れた76年4月、上田は「日本選手権をやろう、俺は参加する」と新日本プロレスの猪木、全日本プロレスの馬場、国際プロレスのラッシャー木村に挑戦状を送りつけました。馬場、猪木はこれを無視しましたが、国際プロレスの吉原功代表が真っ先に上田の挑戦状に反応、5月23日、後楽園ホールで開幕の「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」に上田はフリー参戦。2年7か月ぶりに上田は日本のマットに立ちました。

久しぶりに見た上田の姿にビックリ、上田は前髪を金髪に染めて「まだら狼」として登場したのです。上田の日本プロレス時代のコスチュームといえば、シャチ横内に習った日の丸の国旗を縫い付けた濃紺のワンショルダータイツ、「実力者ではあるが、地味」という定評で、表情に乏しく、仇名が「おじいちゃん」とか「眠狂四郎」などというものだっただけに、この変身ぶりにはファン、マスコミ、関係者を驚かせています。

今でこそ金髪の日本人は山ほどいますが当時としては大きなインパクトで、これは「母国日本でヒールとしてやっていく」という覚悟の現れだと思います。

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