76年新日本プロレス「第3回ワールド・リーグ戦」、全日本プロレスとの興行戦争ですが、川崎市体育館が新日本プロレスは4月2日の開幕戦、全日本プロレスは逆に5月13日の最終戦を持って来ました。6週間差がありますが、同じシリーズ内なので比較しておきたいと思います。
先攻の新日本プロレスの開幕戦は猪木&マサ齋藤組とペドロ・モラレス、ビクター・リベラ組、のアントニオ猪木vsモラレス初対決、公式戦が坂口征二とキラー・カール・クラップ、ストロング小林vsブッチャー・バション、木戸修とケン・マンテルでテレビ生中継で3,400人(満員発表)。
後攻の全日本プロレスの最終戦(公式戦終了後の興行)は前75年12月10日、「オープン選手権」岐阜市民センター大会で組まれたハーリー・レイスvsアブドーラ・ザ・ブッチャーの再戦(ノーコンテスト)、シングルマッチ時間無制限1本勝負。セミファイナルは同日、新日本プロレスの大阪府立体育会館で行われている「日韓親善プロレス大会」をあざ笑うかのような「こちらが真の日韓親善」と言わんばかりのジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組と大木金太郎&南海山組によるノンタイトル60分3本勝負(2−1で馬場&鶴田組の勝利)が組まれて4,000人(超満員発表)の観客を動員しています。
川崎大会は僅差で全日本プロレスの勝ちですが600人程度の差は水増しの範囲内であり、互角と見た方が妥当でしょう。
高松市民文化センターは先攻が全日本プロレスの4月21日で3,600人(満員発表)。公式戦は初のシングル対決となる鶴田vsザ・デストロイヤー(30分時間切れ引き分け)、キング・イヤウケアとザ・バラクーダ(=マリオ・ミラノ、両者リングアウト)、大木金太郎とバディ・ウォルフ(大木の勝ち)。メインイベントは馬場&グレート小鹿組vsブッチャー&ザ・ビースト組。
後攻の新日本プロレスは16日後の5月7日猪木優勝決定戦出場辞退というアクシデントが起きた大会。メインイベントは坂口とS小林、セミファイナルがモラレスとクラップの外国人頂上対決の2大公式戦で、こちらは3,200人(満員発表)。高松も400人差で全日本プロレスに軍配が上がりましたが、こちらも水増しの範囲内で互角と言えます。
ただし、高松という、営業部長の大塚直樹氏が懇意にしている瀬戸内プロ企画への売り興行で、毎年ワールド・リーグ戦に始まり、第5回大会を除くMSGシリーズ、IWGPまで、テレビ生中継で豪華カードを提供してきた興行地盤の優位性を考えるとこの年は新日本プロレスの負けと言えるでしょう。
東京の大会場、先攻は全日本の5月1日日大講堂。テレビ生中継で公式戦は馬場vs鶴田の東都シングル初対決(26分15秒、バックドロップからの片エビ固めで馬場の勝ち)、前75年12月11日、日本武道館での「力道山13回忌追善特別試合」以来の因縁の対決、大木とブッチャーの再戦(6分12秒、両者リングアウト。試合後にレイスが乱入しブッチャーと会場外の京葉道路まで出て乱闘を展開した「元祖・路上プロレス」)で7,500人発表。
後攻、新日本プロレスは10日後の5月11日東京体育館で優勝決定戦、モラレスvs坂口は5,200人発表と、新日本プロレスが、73年4月20日、NETの「ワールドプロレスリング」の放送がついた直後の蔵前国技館大会(黄金コンビ新日本プロレス初結成、猪木&坂口組vsジャン・ウィルキンス&サイクロン・ソト組)の6,200人発表を1,000人下回る不入り発表となり、全日本プロレスも満員ではありませんでしたが、東京に関しては新日本プロレスの大敗だったと言えます。
やはり猪木のリーグ戦不参加が最後まで興行に大きく影響を及ぼしたと言っていいでしょう。過去作品でもこの件は何度も書いていますが、やはり猪木には決勝に出てきて、モラレスと勝負して欲しかったというのが本音ですが、時間が経過するにつれ、モハメド・アリ程の超大物と対戦する以上は3か月位は試合に出ずに特訓が必要だったのでは?という真逆の考え方も真理だと思うようになりました。
全日本プロレスの「第4回チャンピオン・カーニバル」については、別連載「昭和プロレス年史外伝�⇔疣造冒匹襯供Ε丱薀�ーダ、マリオ・ミラノ伝説」で採り上げており、全日本プロレスが初の総当たりリーグ戦を敢行したこの第4回大会が第1〜10回の昭和の大会の中では個人的には一番面白かったと言えます。
リーグ戦の醍醐味と言えば、最後の最後まで読めない優勝争い展開、リーグ戦を掻き回すダークホース(伏兵)の存在、大物食いなどの予期せぬ番狂わせなどありますが、この基準を満たしているのが私の中では69年日本プロレスの「第11回ワールド・リーグ戦」、75年新日本プロレスの「第2回ワールド・リーグ戦」、とこの「第4回チャンピオン・カーニバル」の3つだけです。
馬場、鶴田、デストロイヤー、大木、ブッチャー、そして伏兵のバラクーダの混沌とした争いになりましたが、最終公式戦の直前でデストロイヤーが5月6日、帯広市総合体育館で大木に29分35秒(残り試合時間25秒)でリングアウト負け、翌5月7日、旭川市体育館で小鹿に文字通り両者リングアウトで足を引っ張られ、2試合連続無得点となりまず脱落。
最終公式戦の行われる5月8日、札幌中島スポーツセンター(テレビ生中継、観衆6,100人超満員発表)大会の試合前の時点で1位がバラクーダの17点、2位に16点で馬場、鶴田、大木、ブッチャーの4人が並ぶ展開に。
まずテレビ中継開始前にブッチャーがウォルフを破り18点、鶴田vs大木のシングル初対決は30分時間切れ引き分けに終わり共に17点。最終公式戦の馬場vsバラクーダでバラクーダが勝てば優勝ということになりましたが、馬場は、本当にここ一番にしか出さないランニング・ネックブリーカー・ドロップでバラクーダを仕留め、18点でブッチャーと並び同点決勝に突入。
馬場がダイビング・ボディアタックでブッチャーをフォールに入った時、レフェリーのジョー樋口が巻き込まれダウン。カウント3以上は余裕で入る位長く押さえ込んでいましたがカウントは入らず。
これに逆上した馬場が激怒してブッチャーを痛めつけて反則負け、9分53秒、ブッチャーまさかの初優勝、馬場の4連覇は消えました。国際プロレスの「IWAワールド・シリーズ」は外国人の優勝の優勝がありますが、力道山直系の流れを組む全日本プロレス、新日本プロレスの開催した「春の祭典」で外国人、しかもヒールが優勝したというのは過去になく、歴史が大きく変わった大会でした。
この年の「春の祭典」は内容で全日本プロレスが上回ったというのが私の所見です。ただ、全日本プロレスは両者リングアウトの無得点試合が多数あり、小鹿vs大熊元司の極道コンビ対決は「俺達はパートナー同士だから対戦したくない」と両者不戦敗になってしまうなど問題も散見されましたが…
今回「何故ビクター・リベラは今リーグ戦これ程の厚遇を受けたのか」という疑問が生じます。
これについて解説しておきますと、リベラはこの後翌77年4〜6月の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」、79年4〜6月の「第2回MSGシリーズ」と新日本プロレスに来日、ポジションは落ちていき、81年のブッチャー新日本プロレス移籍に端を発した一連の引き抜き抗争で全日本プロレスに移籍し、ジョバー扱いで潰されてしまいましたが、
リベラは前75年WWWFからオポジションの米国版IWAに引き抜かれて行ったはいいですがすぐさまIWAが活動休止になりWWWFヘUターン。帰国後WWWFのメインサーキットに復帰、その為の冷却期間として新日本プロレスに遠征して来ていました。
73年9月に新日本プロレスに来た時はロサンゼルスのマイク・ラーベルのブッキングでしたが、この時はビンス・マグマホン・シニアのブッキングで来ており、おそらく「ペドロ・モラレスを長期ブッキングする付帯条件としてモラレスとセットかつ、それなりのポジションで使って欲しい」というビンス・シニアの意向があったかと思われます。
リベラがこの時ロサンゼルスで試合をし、ラーベルのブッキングで呼ばれていたらタワーリング・インフェルノと同等あるいはその下くらいの扱いだった可能性は強いと考えます。(完)
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