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2026年09月02日07:17

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝�ゾ赦卒猯�島の決闘、アントニオ猪木vsストロング小林(22)

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元国際プロレスのエースであり、団体の看板タイトルであるIWA世界ヘビー級王座を転落する(誰かに負けてベルトを置いていく)ことなくフリーとなったストロング小林を2度に亘って破り、73年4月に興行活動を休止した日本プロレスの最後のエースであり且つ認定団体がなくなり、韓国で防衛戦をやっていたかどうか定かではなかったがインターナショナル王者の大木金太郎を破り、意気上がるアントニオ猪木は74年12月13日、全日本プロレスの総帥、PWFヘビー級王者、ジャイアント馬場に内容証明郵便で「対戦要望書」を送付しました。

「テレビ放映権もくれてやる、興行権も譲る。ファイトマネーも要らない。立ちたまえ馬場君!私達は故・力道山先生の門下生として共に厳しい練習を積み、切磋琢磨してきた間柄ではないか、今こそ正々堂々と男らしく勝負して真の実力日本一を決めようではないか!」

実際に猪木が全日本プロレスの興行に出て、馬場と対戦し、それを日本テレビが放送するというのは、NETと契約している立場上、現実的ではありませんがとにかく付帯条件を相手に与えて追い込んでいく猪木特有のやり方でした。

馬場はこれを受け取ったままアメリカに鶴田と共に出発、12月26日(現地時間)テキサス州アマリロ・スポーツアリーナで行われる「ドリー・ファンク・シニア・メモリアルナイト」に出場、全日本プロレス旗揚げ以来の外国人レスラーのメインブッカーだったドリー・シニアは心臓に疾患を抱えていましたが、73年6月3日自身の54歳(1919年5月4日インディアナ州ハモンド出身)のバースデーパーティーで、酔っ払ってレスラー仲間のゴードン・ネルソンと「腕自慢」のシュートでのスパーリングを余興で行い、その後気分が悪くなって倒れ、心臓発作で亡くなっていました。

当時アメリカのファンク一家に預けられていた鶴田はこのパーティーに出席しており、一部始終を目撃していました。馬場存命中の全日本プロレス社長室にはドリー・シニアの遺影が飾られていたとのこと。

馬場と鶴田はメモリアル大会のメインイベントでドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組のザ・ファンクスが保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦が決定していました。(2−1で敗れる)

馬場はアメリカ出発前の取材で、「確かに対戦要望書は受け取った。公開でこれが届けられた以上、私もハッキリした返事をする。今はインターナショナル・タッグ王座挑戦のことで頭がいっぱい。アメリカから帰ってきたら答えを出す。」とコメントしています。

一方で、ブラジル遠征から帰ってきた猪木は、馬場の渡米中、一気にまくし立てています。

猪木「今まで馬場さんを追い続けて来た、私の態度に色々の批判があることは知っている。しかし、私は私の信念に基づいて馬場さんに対戦を迫っているのだ。

日本マットの統一は、私の悲願であり、真の強者は一人でなければならぬ。いたずらにチャンピオンが乱立して興行の看板用のチャンピオンになり、真の実力を疑問視されることは、本質的なプロレスのあり方に触れる大問題だ。

ファンのそんな目に対して、チャンピオンは真に強者であるという答えを出すべきなのだ。だからこそ、私は馬場さんに『私と闘え』と言う。おそらく馬場さんは私とは闘わないと言うでしょう。それならそれでいい。

(中略)私は自分で言うのも変だが、これだけの誠意を見せているのだ。(テレビ放映権、興行権、ファイトマネー不要など)今度こそ馬場さんも『よし、猪木分かった。やろう!』と言ってくれることを期待しているのだが…」

インターナショナル・タッグ王座の奪回は失敗に終わり、12月29日、帰国の途についた馬場は東京スポーツのインタビューに答えて「闘わない」という意思表示を明らかにしています。いか馬場のコメントを抜粋。

馬場「猪木君の挑戦状は確かに受け取った。随分と厳しいものだね。私は猪木君の言っていることはよくわかる。また、ファンがそれを望んでいることもわかる。だが私は闘えない、逃げる訳ではない。闘わないというのではない。だが闘えぬ。

それは、私がNWAのメンバーだからだ。NWAでは他の団体の選手との対戦を認めていない。猪木君はNWAのメンバーではない。私はアメリカでNWA会長のサム・マソニック氏、PWF会長のロード・ブレアースの会長両氏に相談したが、闘ってもいいという許可は得られなかった。

NWAの意向を無視しては闘えない。全日本プロレスはNWAとの提携の上に成り立っているのだから猪木君とは闘えない。」

柳澤健氏著の「1964年のジャイアント馬場」においても馬場のこの理論はデタラメと書いてありますがそこはその通り。「NWAが駄目だと言っているから闘えない」と言う理由で本当にファンが納得するのか?

いずれにしても馬場が「ノー」と回答したことで日本選手権問題は一応は終わりを告げました。 

さて、この74年という年は東京スポーツ新聞社による記念すべき第1回の「プロレス大賞」が制定された年でした。東スポの井上博社長が険悪な馬場と猪木の関係を憂慮し「1年に1度位、3団体のレスラーが一堂に会し、交流を深めてもいいんじゃないのか」という肝いりで実現したものでした。

最優秀選手賞(MVP)アントニオ猪木(新日本)、最高殊勲選手賞ジャイアント馬場(全日本)、年間最高試合賞(ベストバウト)NWF世界ヘビー級選手権試合猪木vsストロング小林(新日本3月19日、蔵前国技館)、特別賞マイティ井上(国際)、敢闘賞小林(フリー)、技能賞ジャンボ鶴田(全日本)、新人賞藤波辰巳(新日本)、努力賞山本小鉄(新日本)、マシオ駒(全日本)、寺西勇(国際)※努力賞は各団体より1名選出。

新日本プロレスと全日本プロレスのパワーバランスに配慮した後が見受けられますが、小林が年間最高試合賞と敢闘賞の2つを受賞したのは猪木との2連戦が高く評価されたものでした。

「最優秀選手賞」と「最高殊勲選手賞」を両方制定しなければならなかったのは苦慮した部分でしたが、馬場、猪木「両雄並び立たせる」にはこうせざるを得なかったと思います。

猪木に敗れた小林は翌75年1月3日「新春黄金シリーズ」開幕戦の埼玉県越谷市体育館にスーツ姿で登場、「猪木さんを内側から研究したい」とフリーとして新日本プロレスに参戦することを表明、猪木、坂口征二とガッチリ握手。

1月7日長野市民体育館でのコーリン・ジョイソン(9分20秒、片エビ固めでフォール勝ち)からシリーズ登場、「ビッグ・ファイト・シリーズ」、「第2回ワールド・リーグ戦」と3シリーズフリーで闘った後、5月30日後楽園ホールで開幕の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」から正式に新日本プロレスの一員となっています。

日本中のプロレスファンを熱狂させた猪木vs小林の「昭和巌流島の決闘」は小林が猪木の軍門に降り幕となりましたが、71年12月の猪木日本プロレス除名・追放処分からの団体分裂でプロレスから離れていたファンを引き戻すことに成功、新日本プロレス大躍進のきっかけを作ったのは間違いない事実でした。(完)
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