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2026年08月17日07:49

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝�ゾ赦卒猯�島の決闘、アントニオ猪木vsストロング小林(6)

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74年、国際プロレスはストロング小林の退団だけではなく68年1月から放送開始されたTBSの「TWWAプロレス中継」が3月一杯で打ち切りとなりました。「TWWAプロレス中継」は当初は毎週水曜日午後7時(関東地区)〜7時56分の原則生中継でスタート。

放送開始第1回となった68年1月3日日大講堂からの生中継でエースとして期待されていたグレート草津がルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦、1本目に17分50秒、バックドロップで倒され失神、2本目は試合放棄という惨敗を喫し、この模様が全国ネットで流されてしまうという不運のスタートを切りました。

また、新体制第2弾「ワールド・タッグ・シリーズ」の途中で外国人レスラーのブッカーをしていたグレート東郷が「約束通りのギャラを払わない」とダニー・ホッジ、アル・コステロ、ドン・ケントらの外国人レスラーを引き揚げさせる暴挙に出て、生中継に穴が空き、急遽過去の録り溜めしていた録画素材を放送するなど放送開始からケチがつき、生中継は減少。徐々に録画中継中心になっていきました。

68年〜69年前半までは国際プロレスもシリーズとシリーズの間隔が短く新しい素材を放送していましたが、TBSの中継はこの当時でも視聴率20〜25%という高い数字を弾き出していたものの、東京、大阪、愛知といった大都市圏では観客動員は不振で、北海道、岩手、宮城、福岡、大分、長崎、宮崎などTBSのネット局が強い地域では満員、超満員となるなど偏りが出て、69年後半からは効率面からシリーズを長期化しシリーズオフを長くしていました。

また、TBSでは放送クルーの移動経費の削減からかシリーズ開幕戦からすぐの関東地方での収録が増える「固め録り」が増加、(例えば開幕戦が東京、第2戦が埼玉、第3戦が茨城とすると3大会を連続して収録し、それを3週間で放送する、といった感じ)次第に興行とテレビ中継の日時の間隔が空くようになり、シリーズのオフとオフの間には1〜2か月遅れの試合を放送することが常態化。

1大会を2週に分けて放送するのも珍しくなく、3本勝負が複数あるテレビマッチはその傾向が強かったです。そうなると日本テレビの「日本プロレス中継」や69年7月2日に放送を開始したNETの「ワールドプロレスリング」とは試合の鮮度が違ってしまい、シリーズの流れを同時進行で追うことが出来なくなってしまいました。つまり「いつやったかわからない試合」を視聴者は見せられていたことになる訳です。こうなると視聴率は下がっていく一方。

後発のNET「ワールドプロレスリング」は放送開始当初から「ジャイアント馬場、坂口征二の試合、ワールド・リーグ戦の公式戦は放送出来ない」という条件付きでスタート。放送時間も毎週水曜日午後9時(関東地区)からという生中継が出来ない時間帯でスタートしましたが、「日本テレビに追いつけ、追い越せ」できちんとシリーズの流れに沿った番組を作っていました。

努力の甲斐があり、「ワールドプロレスリング」は放送開始から1年経たない内の70年4月6日からは毎週月曜日午後8時(関東地区)と生中継が可能な時間帯に昇格。日本プロレスはNETの試合中継がある時には馬場の試合を前の方で組むなど上手く対応していました。このあたりの制作側の情熱が、57年の歲月を超えて2026年現在も唯一の地上波番組として残っている所以だと思います。 

「TWWAプロレス中継」は72年1月5日から毎週水曜日午後7時〜7時30分→同72年4月2日から毎週日曜日午後6時〜6時55分→同72年10月1日から毎週日曜日午後6時25分〜6時55分→73年4月1日から毎週日曜日午後6時〜6時30分と放送時間帯の短縮、変更があり、73年10月6日からは毎週土曜日午後2時〜2時30分という厳しい時間帯に変更されました。(いずれも関東地区)

家庭用ビデオデッキが普及しておらず、週休二日制も定着していないこの時代に、土曜日の昼間からプロレス中継を観ている大人はそうはおらず、子供も学校から帰ったら遊びに行く時間でした。この時間帯変更は「打ち切り前提」だったと言えるでしょう。

小林の退団、TBSの放送打ち切りという「御家の一大事」に次期「チャレンジ・シリーズ」にカナダ・モントリオール遠征に出ていた大剛鉄之介を呼び戻そうと計画、吉原功社長は大剛に帰国命令を出しました。シリーズ開幕戦は3月26日、大剛の出身地である仙台・宮城県スポーツセンター。TBSネット局が強かった地域で興行人気の高い会場でした。

大剛は主戦場にしていたモントリオール、GWA(グランプリ・レスリング・アソシエーション)の代表であるマッドドッグ・バションに帰国を申請しましたが契約期間がまだ残っており、大剛こと「トーキョー・ジョー」は同地区のトップヒール。バションは大剛を手放したくなく当初は契約中を理由に首を縦に振らず。

しかし、国際プロレスの窮状を説明、当時インディアナポリス版WWA(ディック・ザ・ブルーザーとウィルバー・スナイダーが共同代表)で武者修行をしていた後輩のデビル紫を呼び寄せ、後釜に据えることでバションの了解を取り付けました。

3月18日に合流した紫を伴ってモントリオールから後輩の八木宏(剛竜馬)が武者修行をしていたカルガリーへ向けてトレーラーカーで移動していた際、スリップ事故を起こし立ち往生、車の外に出てトレーラーを切り離そうとしていたところ、後ろから走ってきた19歳の少年が運転する乗用車が追突し、挟まれた大剛は右足切断の重傷を負ってしまい、プロレスラー生命を断たれるという悲劇が起きてしまいました。

国際プロレスにとってはまさにトリプルショックに見舞われ、僅か1年〜1年半前までは日本プロレスを含めた4団体中、一番選手層が厚く、日本マット界の盟主になれる可能性があった国際プロレスは団体存亡の危機に晒されてしまうのでした。

話を小林に戻しますと、フリー宣言した小林は馬場と猪木に内容証明郵便で挑戦状を送付、2月25日、猪木がこれを受諾したことを発表しました。

これが発表されると「本人の決意が固いから止められない」としていた吉原社長は小林と交わした契約書を盾に取り、「契約期間は1年となっているが、これは期限の定めはない。契約は1年毎に自動更新される性質のものであり、契約を解除するには小林は違約金1,000万円を支払わねばならない。」と反撃に転じました。

こちらの件は「月刊プロレス」74年4月号で当時の同誌編集長である藤沢久隆が吉原社長の言い分を取材。06年にベースボールマガジン社から発売された「ザ・レトロマニア」に当時の藤沢編集長とライバル誌だった「ゴング」の竹内宏介編集長の奇跡の対談が掲載されていますが、その中で藤沢編集長が吉原社長の言い分を聞いて「これは業界の秩序を乱す大変な事件になる」と青梅市小作にある小林の実家を訪ね、小林を説得にあたったエピソードが語られています。

藤沢は「小林にね、これは大変なことなんだよ、これだけの大金、自分が払うか、そうじゃなければ誰かに肩代わりしてもらわないといけないんだよ、人に迷惑かけちゃダメだよと言ったら小林は『いや、そんなものは大したことないんだ』と言ってたな」と当時を振り返っています。

奇跡の対談というのはこの翌年、藤沢氏は62歳の若さで死去、竹内氏はこの年の暮れに脳梗塞で倒れ闘病生活に入ったからです。(12年5月3日65歳で死去)

竹内氏はいわゆる「プロレス村」の住人でしたのでこのようなトラブルは慣れており、新間寿氏、東京スポーツの桜井康雄氏ともツーカーの仲で、大事にはならないことはわかっていましたが、ベースボールマガジンから人事異動で「月刊プロレス」編集長になった藤沢氏は野球の世界で「契約書の重要性」を認識していたことから、小林を心配しての行動だった訳です。

逆に「ゴング」では猪木vs小林戦を煽りまくっていました。

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