今回から「昭和プロレス年史」1975年前編の中でも特に時間を割いて採り上げた新日本プロレス「第2回ワールド・リーグ戦」の模様を振り返りたいと思います。
75年新日本プロレス春の本場所「第2回ワールド・リーグ戦」は4月4日蔵前国技館(テレビ生中継、観衆8,500人発表)で開幕。
先の「ビッグ・ファイト・シリーズ」最終戦の蔵前国技館大会が3月20日(観衆10,500人満員発表)ですから僅か2週間間隔での蔵前大会開催で満員には届きませんでしたが、新日本プロレス人気の勢いを感じさせました。
公式戦参加選手は新日本プロレス所属が前年度優勝者アントニオ猪木、坂口征二、星野勘太郎、山本小鉄、永源遙、柴田勝久、木戸修、フリー参戦がストロング小林、大木金太郎(韓国代表)、マサ齋藤、外国人選手がドイツ代表キラー・カール・クラップ、覆面代表スーパー・デストロイヤー(ネイル・グアイ)、アメリカ代表マンマウンテン・マイク、メキシコ代表サングレ・フリアー、カナダ代表ジョン・ガニア、インド代表ファザール・シンの計16選手。
試合時間は30分1本勝負。あらゆる勝ち1点、あらゆる引き分け0.5点、負けが0点、今回、参加全16選手による日本プロレス界始まって以来の予選なし、総当たりリーグ戦による優勝争いとし、リーグ戦の得点上位2選手による優勝決定戦が5月16日、日大講堂で行われることになりました。非常にシンプルでわかりやすい形式です。
NETによる「ワールドプロレスリング」も、4月4日の開幕戦から5月16日の優勝決定戦まで7週連続の生中継を実施、優勝争いをオンタイムで視聴者に伝えるべく力が入っています。
当初参加が予定されていた元NWA世界ヘビー級王者ジン・キニスキーが同時期開催の全日本プロレス「第3回チャンピオン・カーニバル」に行ってしまい、外国人選手の目玉がなくなってしまったのは残念でした。
キニスキーは日本プロレス崩壊後、74年3月に全日本プロレスの「エキサイト・シリーズ」に特別参加していましたが、当時キニスキーのホームリングであったカナダ・バンクーバーでファイトしていたM齋藤の誘いで新日本プロレスへの初参加を応諾していました。
この動きを察知した馬場が新日本プロレスの条件を上回るギャラをキニスキーに呈示、あっさりと新日本プロレスへの参戦をキャンセルして全日本プロレスへ来日。おそらくキニスキーがギャラを天秤にかけたと思われます。
また、この大会よりワールド・リーグ戦の優勝杯が日本プロレスのワールド・リーグ戦で使われていた栄光の大トロフィーが寄贈(実際には売買)されるとのことでしたが、そちらも日本プロレスの芳の里社長と猪木との約束は反故にされました。
大トロフィー寄贈の件は残務整理中であった日本プロレスの代官山の事務所に「営業社員」が「手ぶら(袖の下を持参せず)」で取りに来たことが芳の里社長の逆鱗に触れた、ということが書かれている文献があり、芳の里は「何故猪木が直々に取りに来ないのか!」と激怒したという話です。
実際は馬場から新日本プロレスより高額で買い取るからとストップがかけられたことによるものでしょう。馬場と日本テレビにとっては「日本プロレスの遺産」が猪木とNETの手に渡ることは何としても阻止しなければならなかったのでしょう。結果的に日本プロレスのワールド・リーグ戦優勝杯はこの年の12月に開催された全日本プロレス「オープン選手権」の優勝者である馬場に贈られることになりました。
キニスキーの不参加で外国人側は弱体となりましたが、逆に猪木、坂口、S小林、大木の4強による日本人頂上対決(今更ですが韓国人の大木は日本プロレス育ちで日本を主戦場にしており日本人扱い)による優勝争いがファンの関心を集め、「事実上の日本選手権」として各地で人気爆発し、興行的には大成功を収めることになります。
外国人は前年度準優勝のクラップがエース格、前年の第1回大会は予選リーグ戦で猪木からフォール勝ちし外国人側1位で予選通過、決勝リーグ戦でも猪木、坂口に勝ち5.5点で猪木、坂口と同点首位。
5月8日東京体育館での優勝決定戦は3者による巴戦(先に2勝した選手が優勝)となり、第1試合で坂口に反則負け、第2試合の猪木vs坂口戦にジ・インベーダー(ビル・ドロモ)と共に乱入、坂口を襲撃して大流血させ、ドクターストップで棄権に追い込みました。
坂口の棄権により、第3試合の猪木vsクラップが自動的に優勝決定戦に繰り上がり、盟友坂口との試合をぶち壊しにされた猪木が怒りの攻撃。7分16秒、弓矢固め(ボーアンドアロー・バックブリーカー)でクラップをギブアップさせて初優勝。外国人選手の中で優勝戦線に躍り出て来そうなのはクラップが最有力であり、猪木、坂口、S小林、大木の4強は警戒が必要。
Sデストロイヤーは日本でもお馴染みのドン・ジャーデンではなく、初来日のグアイがその正体。翌76年にはタワーリング・インフェルノ、77年にはザ・ハングマンとしてマスクマンで新日本プロレスに来日(80年は素顔のハングマンとして来日)しますがこの時点では実力は未知数です。
「元祖」人間山脈マイクは188cm、288Kgの巨漢レスラーで参加外国人中唯一日本プロレス時代のワールド・リーグ戦参戦経験あり(71年第13回大会)。この時は日本人対外国人の対抗戦2回総当たりリーグ戦で7点と中位に終わっています。
メキシコの冷血仮面フリアー、カナダの新人でバーン・ガニアの甥っ子という触れ込みのJガニア(血縁関係なし)、タイガー・ジェット・シンの弟と言われているFシン(同じく血縁関係なし)の初来日3人組はいずれも実力に関しては未知数です。
開幕戦は生中継の入場式前に木戸とクラップの公式戦が行われ、2分42秒、クラップが頭蓋骨絞め(ブレーンクロー)で破りまず1勝。
テレビ中継が始まり、次いで入場セレモニー、SデストロイヤーとFシンはカナダからの飛行機トラブルにより開幕戦には間に合っていません。
入場セレモニーが終わり、選手退場となったところでクラップがガウン姿の猪木を襲撃、階段で落とされた猪木にクラップは場外でブレーンクローを決めました。セコンドによってようやく引き離されましたが猪木は試合直前に手痛いダメージを負ってしまいました。
この日はダブルメインイベント、2大公式戦が組まれました。先ず、ダブルメイン第1試合は猪木と大木の3度目の対戦。これまで、前74年10月10日、蔵前国技館では大木が猪木のNWF世界ヘビー級王座に挑戦し13分13秒、体固めで猪木の勝利。
3月27日韓国・ソウル市奨忠体育館では猪木が大木のインターナショナル王座に挑戦、13分38秒、両者リングアウトの引き分けとなっており、若手時代を除いて3度目の対決となります。
先程のクラップの襲撃によるものか、猪木の左足のリングシューズの紐が解けており、猪木がそれを気にして直そうと下を向いたところ、大木が突如として後ろからヘッドバットの奇襲、試合開始のゴングが鳴り、大木はヘッドバットの乱れ打ち、猪木は場外に転落。
「勝つも負けるも頭突き一筋」の大木は場外でもヘッドバットを打ち続けてサッとリングに上がりました。猪木はダメージが強く動けない。ようやくエプロンに手が掛かったところでレフェリーのミスター高橋はカウント20を数え、僅か1分16秒、大木のリングアウト勝ち。猪木はまさかの初戦敗退となりました。
結果的にこの試合が最後の猪木vs大木戦となった訳ですが、この時大木に最後「勝ち逃げ」されたことが後々猪木と新日本プロレスには大きな痛手になっていきます。
ダブルメイン第2試合は坂口とS小林の初対戦。似たパワーファイター同士の対戦となりました。S小林がサーフボード・ストレッチ、ベアハッグ、キャメルクラッチと攻めれ坂口もベアハッグのお返し、コブラツイストと反撃。
力と力の真っ向勝負は30分では決着つかず、時間切れ引き分けに終わりました。テレビ生中継は時間切れ寸前に放送時間が終了、番組のエンディングで引き分けのシーンが伝えられています。
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