72年日本プロレス「新春チャンピオン・シリーズ」でのマリオ・ミラノは1月15日徳山市(現周南市)体育館で大木金太郎のアジア・ヘビー級王座に挑戦。
1本目はミラノが体固め、2本目は大木が足4の字固め、3本目は大木が逆エビ固めで連取して2-1で大木が王座防衛。
ジャイアント馬場と1月3日深谷市民体育館で30分1本勝負で対戦して両者リングアウトに終わっていますが、1月21日後楽園ホール(日本テレビが生中継)で60分3本勝負で再戦を行いました。
ノンタイトルながら、日本一、プロレスを観る目が肥えているファンが集まってくる後楽園ホールのテレビマッチで馬場とのシングル戦、しかもメインイベントの3本勝負が組まれたのはミラノの実力が高く評価されていたからかと思います。
1本目はミラノが体固め、2、3本目は馬場が体固めで取り2-1で馬場が勝利。
この時期はインターナショナル・タッグ王座は前71年12月7日札幌中島スポーツセンターで馬場&アントニオ猪木組がザ・ファンクスに敗れて海外へ流失中、また猪木が保持していたUN王座は返上されて空位になっており、ミラノはまたもアジア要員でした。
ミラノも198cmの大型で、馬場とはスケールの大きな試合を何度かやっていますが、このシリーズで坂口征二と最初で最後の顔合わせ。
シングルマッチはなく、タッグで4回対戦し、坂口が直接フォールを1回だけ奪っています。ミラノがこの後も日本プロレスに継続参戦していれば、坂口がこのシリーズ修了後の2月11日、ロサンゼルスでキング・クローを破って獲得するUN王座への挑戦が実現していたかと思います。
日本プロレスにはこれが最後の来日となりました。
帰国後、WWWF、AWA地区でファイトしていたミラノは同年10月、国際プロレスの「ビッグ・ウインター・シリーズ」に1度だけ来日。
この時も国際には初登場となるディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキーが後半戦特別参加で一緒でした。
この時馬場は日本プロレスから独立して全日本プロレスを旗揚げしていました。
旗揚げに際しては日本側が人材不足であり、馬場は旗揚げシリーズに国際プロレスから鶴見五郎、デビル紫(ムラサキ)を借り受けて興行を開催。
さらに名古屋の医薬品メーカー「スズケン」の営業部長と二足のわらじを履いていて国際内では存在が浮いていた感のある元IWA世界ヘビー級王者、サンダー杉山と、グレート草津の付き人をしていて草津の酒癖の悪さに辟易していた本郷篤(肥後宗典)を円満移籍で獲得していました。
馬場は選手を貸出してくれた国際の吉原功社長の恩義に報いようと11月29日東京体育館と30日水戸市茨城県スポーツセンター大会の2試合に見返りとして友情参加しています。
11月29日、東京体育館(観衆4,000人)では馬場は草津と組んでレッド・バスチェン、ミラノ組と対戦。
草津は65年にラグビー日本代表から日本プロレス入りしますが、当時からナマクラで周囲との軋轢は多く、直ぐに退団して66年に国際プロレスに移籍。
アメリカ修行を経て68年にTBSの放送がつく時にエース格として放送開始時ルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦することが決まっていた時に馬場と羽田空港で遭遇。
「馬場さんは日本プロレスのエース、僕は国際プロレスのエース、エース同士お互い頑張りましょう。」
と発言し馬場の怒りを買ってしまいました。結局、草津はテーズに惨敗し国際はTBSがついた初っぱなから大きくつまづいたのはよく知られた話です。
この時も草津は入場順について「馬場さん、お先にどうぞ」と言って物議をかもしました。
草津の言い分としては「アメリカでは格上の選手が前を歩くから」ということらしいですが、これに馬場はまたカチンと来たようです。
1本目はバスチェンが草津を体固め、2本目は馬場がミラノを体固め、3本目は草津がバスチェンをエビ固めに決めて馬場、草津組が2-1で勝利。
このシリーズは主役はブルーザー&クラッシャー組でこの日のメインイベントはストロング小林&マイティ井上組に2-1でWWA世界タッグ王座(インディアナポリス版)を防衛しています。
この話を聞くと、草津のオープン選手権での不調ぶりも納得…。
11月30日、水戸市茨城県スポーツセンター(観衆4800人満員)では特別試合でミラノは馬場と45分3本勝負で対戦。
1本目は10分40秒体固め、2本目は7分38秒片エビ固めで2-0で馬場のストレート勝ちに終わりました。
メインはS小林&草津組とブルーザー&クラッシャー組のIWA&WWA世界タッグダブル・タイトルマッチ(1-1から日本組の反則勝ちで王座移動なし)で、ミラノはこのシリーズタイトル戦線に絡んでませんが、ゲスト参戦の馬場の2試合とも相手を務めているのはよほど馬場とは縁が深かったと思われます。
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