76年4月24日は徳島県鳴門市体育館(観衆3,000人発表)大会。ザ・バラクーダは公式戦で因縁のザ・デストロイヤーと対戦しました。
両者は前75年1月4日、後楽園ホールで覆面世界一決定戦十番勝負第4戦で対戦していますが、この試合の1本目、この時点での日本プロレス界での「記録」が生まれています。
ゴングと同時にロープに飛んだデストロイヤーはいきなりバラクーダに馬乗りで飛びつき、奇襲のフライング・ボディシザース・ドロップ(空中胴締め落とし)、5秒体固めで先制フォール。
この他にいわゆる「秒殺」フォールの有名なところでは02年7月ゼロワン火祭り、大谷晋二郎vs金村キンタローの3秒、00年12月新日本プロレスの佐々木健介vs小原道由の6秒、00年3月全日本、秋山準vs大森隆男の7秒(左側が勝者、秋山と大森は同一時間で勝敗がこの逆パターンもあり)などがありますが、一番最初にやったものが最もインパクトがあります。
実際は3、5、6、7の区別など見ていてもはっきり分かる訳もなく、タイムキーパーであるリングアナウンサーの判断一つ。
鈴木みのるvs菊タローの試合で1秒、フィンガーロックによるギブアップもあったように記憶していますがこれはネタかと思います。
2本目はバラクーダが取り、3本目はデストロイヤーがエビ固め勝ち2-1でデストロイヤーの勝利。
両者のシングルマッチはそれ以来でしたが、デストロイヤーが足4の字でバラクーダを返り討ちにし、16点で首位になりました。
翌4月25日は神戸市平和台スポーツセンター(観衆3,500人発表)でジャンボ鶴田とキング・イヤウケアが両者リングアウト。鶴田は失点6の12点。
4月27日福井県敦賀市立体育館(観衆3,800人発表)ではジャイアント馬場とアブドーラ・ザ・ブッチャーが公式戦で激突し両者リングアウト。馬場は失点7の13点、ブッチャーは失点6の10点と得点は伸びず。場外カウントが10のPWFルールは両者リングアウトを増産していくことになります。
4月30日静岡駿府会館(観衆4,000人満員発表)から最終戦の5月13日川崎市体育館までハーリー・レイスが特別参加。
レイスは前75年12月10日「オープン選手権」岐阜市民センター大会でブッチャーと対戦(結果は両者リングアウト)し左肩の骨にヒビが入る重傷。
翌12月11日日本武道館で行われた力道山13回忌追善試合を無念の欠場。セミファイナルに組まれた大木金太郎vsブッチャー戦の前に左腕を三角巾で吊った姿で現れ、観客に欠場のお詫び。
そこへ、ブッチャーが入って来てレイスを襲撃、片腕が使えないレイスはブッチャーにやられるがまま。
大木がおっとり刀で駆けつけてレイスを救出、大木vsブッチャー戦をコールしようと慌ててリングに上がった力道山の長男・百田義浩リングアナにもブッチャーが攻撃を加え凶器で一撃。
百田リングアナは父の追悼大会で額から流血、白いジャケットが朱に染まりました。
大木とブッチャーの試合は両者リングアウトの引き分けに終わり、「師匠力道山先生の追善試合でブッチャーを倒せなかった」ことに責任を感じた大木はオープン選手権を棄権して韓国へ帰りました。
丁寧に仕込まれたアングルだなぁ、と感心する他はないですが、レイスの負傷が「偽」ではない証拠がないので確実にそうとも言い切れません。
内外20人もの選手を集めたオープン選手権も、日本武道館の追善興行が終わると負傷のレイスを初め、大木、ダスティ・ローデス、バロン・フォン・ラシク、ミスター・レスリング、アントン・ヘーシンクの6選手が棄権。代わって翌12月12日鈴鹿市立体育館から前半戦にはいなかったパット・オコーナーが途中参加しており、当初から1週間の契約ではなかったかと思われます。
レイスはブッチャーにリベンジを果たす為に来日。静岡大会でサムソン・クツワダを9分20秒、ペンデュラム・バックブリーカー、ブレーンバスターと大技連発からの体固めで破りました。
ログインしてコメントを確認・投稿する