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2026年05月07日08:03

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【特別編】マイティ井上さん追悼(272)

87年11月27日に南アフリカ遠征の為(新婚旅行も兼ねて)に日本を出発したハル薗田選手夫妻が台北から乗った南アフリカ航空機が、28日の午前インド洋上のモーリシャス沖で墜落。捜索の結果、乗員乗客全員の生存は絶望と発表されました。享年31歳。

薗田は本名、園田一治、1956年9月16日、宮崎県小林市出身、74年に全日本プロレスに入門、75年1月15日、鹿児島県名瀬市長浜特設リングで淵(渕)正信を相手にデビュー、10分51秒腕固めで敗れる。

大仁田厚、渕と全日本プロレスの初期入門組「若手三羽烏」として将来を期待され、79年9月に海外修行に出発、プエルトリコを皮切りにアメリカ本土で活躍した。アメリカではマスクマンのマジック・ドラゴンに変身、フリッツ・フォン・エリックのテリトリーであったテキサス州ダラスに転戦後、ザ・グレート・カブキとタッグを組み「オリエンタル・ブラザーズ」として悪の花を咲かせていました。

84年1月にMドラゴンとして凱旋帰国、同年3月24日蔵前国技館でマイティ井上のNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座に挑戦も敗退。85年に長州力以下ジャパンプロレス勢が来襲した時には「虎ハンター」小林邦昭と抗争を展開、6月5日、愛知県体育館で小林とのマスカラ・コントラ・カベジェラ(敗者覆面剥ぎ&髪切り)に敗れ素顔となり、リングネームをハル薗田に改名。

私生活ではこの年の9月に同い年の真弓夫人と馬場夫妻の仲人で挙式。「残りの人生を私に下さい」がプロポーズの言葉でした。

リングを降りれば大人しい性格の好青年、「ゴリ君」の愛称で親しまれ、若手後輩選手への指導も的確、面倒見もよく、越中詩郎のデビュー戦(79年3月5日、千葉県館山市民センター)を務めた他、ターザン後藤、三沢光晴、川田利明、小川良成、練習生だった小橋健太、菊地毅、ジャパンプロレス籍から全日本に移った北原辰巳までが直接コーチを受けています。

また、馬場の信頼も厚く、馬場の命令で輪島大士、ジョン・テンタ、高木功、田上明の大相撲から転向した「キャリア組」の練習での技の実験台にもなっていました。

夫婦揃って南ア航空295便墜落事故に巻き込まれる一因となった南アフリカ遠征は、馬場がタイガー・ジェット・シンの招聘(当時南アフリカでブッカーとしても活動していた)に応えたところから薗田の遠征が決まったものでした。

薗田夫妻の仲人でもあった馬場は、「新婚旅行も兼ねて」とブッキングし航空券を渡したのは自分であり、この事故から後々に至るまで強い自責の念に駆られたと自伝に残しています。

なお、本来航空券は東京発パリ経由でしたが、相手プロモーターが手違いで台北経由のチケットを送ってきたといいます。また、この南アフリカ遠征は当初、ザ・グレート・カブキに声が掛かっていたものでしたが、シンの人間性を嫌っていたカブキが断った為、シンから「カブキのようなギミックをやってくれるレスラー」と薗田に話が回った物であると、後年にカブキ本人が回顧しています。

私はこの年、社会人2年目、7月に新人営業マンになったばかり。当時はバブル期でもあり、朝は7時30分から夜は11時近くまで仕事。もちろん、サービス残業、付き合い残業でした。よって87〜90年位までの人生の下積み時代となり、プロレス観戦回数が激減します。特に平日は、月初の暇な日以外はほぼ全滅状態。

土曜日もまだ完全週休2日にはなっておらず、第2、第3が休み。他の週は出勤でいわゆる「半ドン」ですが、実際に昼で帰れたことはほとんどありません。11月28日は土曜日出勤日、私は上司、先輩達と墨田区は押上駅近くのラーメン屋で夕食を取りながら店のテレビのニュースを見ていました。

すると、画面に見慣れたシンがスーツ姿で現れました。「あれ!?タイガー・ジェット・シンが何でニュースに?」シンはリングでのヒールの顔ではなく、沈痛な面持ちで飛行機墜落事故についてコメント、次の瞬間に薗田夫妻の顔写真が映され、事故の実態を知りました。

新日本プロレスには「ヤングライオン杯」、全日本プロレスには「あすなろ杯」という若手の登龍門的リーグ戦がありましたが、00年に全日本から枝分かれしたプロレスリング・ノアでは薗田に指導を受けた三沢光晴、小橋建太、田上明、菊地毅、それにフロントの統括部長として仲田龍もいたことから、若手のリーグ戦を「モーリシャス杯」と名付けて開催していた時期がありました。

これは事故で不慮の死を遂げた薗田のことを決して忘れないように、という思いが込められていたものです。

新日本プロレスから全日本プロレスに持ち込まれた技というのは延髄斬り、サソリ固め、フィッシャーマンズ・スープレックスを始め多数ありますが、その逆は稀です。その中で薗田が得意としていた「ハイヤーッ!」と叫んでからのスライディング・キックはジャパンプロレス時代、マスカラ・コントラ・カベジェラを争ったライバル、小林によって新日本プロレスのリングに持ち込まれています。

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