第410戦、10月8日発売号●【予想】猪木、R木村と対抗戦頂上対決、反則負けを喫す、アントニオ猪木vsラッシャー木村(81年新日本プロレス蔵前国技館)【正解】NWA包囲網を無視して招聘された一流外国人第1号、世界ヘビー級選手権試合、猪木vsレッド・ピンパネール(72年10月9日新日本プロレス広島県立体育館)
【参考】 2014年10月8日発売号は日本でついに実現! 金網デスマッチが残した明と暗、金網デスマッチ、R木村vsドクター・デス(70年国際プロレス大阪府立体育会館)
【予想解説】81年10月8日新日本プロレス蔵前国技館「創立10周年記念興行第3弾 新日本プロレス対国際プロレス全面対決」メインイベント対抗戦大将戦猪木とラッシャー木村の60分1本勝負。
先に「リバース・オブ・ザ・ビート」のテーマ曲に乗りR木村が水色に唐獅子をあしらったガウンを着用して入場。セコンドにはかつての国際プロレスのエースであったストロング小林がついています。
次いで猪木が「炎のファイター」で背中に金色で「闘魂」の刺繍の入った白い縁で深紅のガウンで入場、大物日本人同士の他流試合は上田馬之助、マサ齋藤といったフリーでシリーズにレギュラー参戦している選手を除けば78年12月16日蔵前国技館でのプレ日本選手権優勝決定戦のヒロ・マツダ戦以来3年ぶり。
試合前にアブドーラ・ザ・ブッチャーが私服姿でリングに上がり「俺は猪木を倒すためにここのリングに来た、しかし一向にシングルマッチを受けてくれない、一日も早く対戦したい」とアピール。
ブッチャーはこの日二転三転しましたがディック・マードックとの対戦が組まれていました。(当初発表の永源遙vsマードックはさすがにダミーカードだと思われます)しかし、ブッチャーは直前になって「俺は猪木と対戦したい、俺の狙いは猪木の首だけだ」と対戦を拒否しました。
黒人差別主義者でブッチャーを嫌っているマードックが後から新日本プロレスに来るとは考えていなかったからか、実際はマードックが試合中に何か仕掛けて来る危険性を感じ、自分の商品価値を落とされない為にマードックとは対戦しませんでした。
そして全日本プロレスで何回か対戦経験のあったR木村を睨みつけると「お前なんか2分でKOしてやる」と毒づいて退場。
両選手のコールが終わり、いよいよ決戦のゴング、レフェリーは新日本プロレスのミスター高橋、サブレフェリーは国際プロレスの若松市政が務めました。
R木村はリング中央、猪木はR木村の後頭部にいきなり延髄斬りの奇襲、だが当たりは浅かった。このあたりは心理的駆け引きでしょう。さらに軽いフットワークからスタンディングでのアリキック、張り手、膝蹴りを見舞ってから首投げで投げつけ先手を取ります。
R木村もヘッドバットで反撃、ダウンした猪木にヘッドシザース、猪木はこれを抜けると寝転んだ状態でのアリキック、R木村はヘッドバット連発、ガクッと膝を着く猪木ですが頭の硬さには定評があり反撃、今度はR木村が張り手の連発。
猪木はR木村の膝関節に蹴りを入れるとはダウン、上半身の充実ぶりに対し、やはり足腰は脆く、猪木が軽く当てた蹴りでもバランスを崩してしまいます。
倒れたR木村に猪木は腕ひしぎ逆十字固め、R木村はロープへ逃れました。「てめぇ、来いこの野郎っ!」毒づく猪木にR木村が怒った。コーナーに詰めての張り手、逆水平チョップの連打、猪木はコーナーでダウン、R木村はストンピングで猪木の顔面を踏みつけます。
猪木はローキック、ミドルキックと打撃技を中心に反撃、R木村は打撃には慣れておらずひたすら耐えるのみ。猪木がR木村を場外に落としました。追う猪木。
しかし、場外で猪木を待ち受けていたR木村は猪木の額を鉄柱ヘ打ち付けます。猪木の額が割れて流血しました。リング上に上がるや猪木はR木村にショルダー・アームブリーカーから2度目の腕ひしぎ逆十字固め。R木村はロープに逃れます。だがエキサイトした猪木は逆十字を離さず、鬼の形相で絞め続けました。
レフェリーの高橋はゴングを要請、10分34秒、猪木の反則負けを宣しました。試合終了と同時に国際軍団のアニマル浜口と寺西勇がR木村を救援に入り、逆十字を掛けている猪木にストンピング、新日本プロレス勢と激しい小競り合い。
S小林がリングに上がりましたがどっちつかずの様相、大人しい性格のS小林には難しいかもわかりませんがこの時点で国際プロレス側につくということは新日本プロレスから言われていたと思われ、ここで猪木を襲撃していたら注目を浴びることが出来たかと思います。
この日行われた対抗戦はアニマル浜口が剛竜馬に勝ち、藤波辰巳は寺西勇に勝ち、2勝1敗で国際プロレスに軍配が上がりましたが完全決着とは成らず、次回に持越しとなりました。
【正解解説】「紅はこべ」レッド・ピンパネールことエイブ・ジェイコブス(アベ・ヤコブ)は1928年6月18日ニュージーランドのチャタム島出身。
父親の経営していた牧場で子供の頃から働きながら体を鍛え、10代半ばよりレスリングとウエイトリフティングを開始。レスリングではカンタベリーの州タイトルを3回、ウェリントンの州タイトルを4回獲得し、全国大会でも優勝を果たしました。56年メルボルン五輪の選考会にも参加したが、対戦相手の選手に1ポイント差で敗れ惜しくも予選落ち。
その後、プロ転向を決意し、ファビュラス・カンガルーズのアル・コステロおよびニュージーランドに遠征していたゼブラ・キッドのバックアップのもと、58年にデビュー。ゼブラ・キッドことジョージ・ボラスは自身もアマチュアレスリング出身であったことから、ジェイコブズのキャリアを気に入って各地のプロモーターに売り込んだという。
ニュージーランドで10試合ほど行った後にハワイに渡り、チャーリー・カラニ、サム・スティムボート、ボブ・シブヤ、ラッキー・シモノビッチらと対戦。59年よりアメリカ合衆国本土に進出して、WWWFの前身団体であるノースイーストのキャピトル・レスリング・コーポレーションで活躍。
ユダヤ系ニュージーランド人のベビーフェイスとして、ジョニー・バレンタイン、ブル・カリー、シーク・オブ・アラビア、ジェリー・グラハム、ジョン・トロス、スカル・マーフィ、キラー・コワルスキー、バディ・ロジャースといったヒールのビッグネームと対戦し、アントニオ・ロッカのパートナーにも起用されました。
62年にはロサンゼルスのWWAに登場。地区デビュー翌日の10月30日、ヘイスタック・カルホーンと組んでインターナショナルTVタッグ王座を獲得。
11月29日にザ・デストロイヤー&ドン・マノキャン組にタイトルを奪われるも、WWAではグレート東郷やミスター・モトとも対戦しました。
64年からは南部のNWAフロリダ地区に参戦。5月月5日にドン・カーチスと組んでデューク・ケオムカ&ヒロ・マツダ組からフロリダ版NWA世界タッグ王座を奪取し、7月17日にはマイアミビーチにおいて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも挑戦しています。
66年12月末、アベ・ヤコブの名義で日本プロレスに初来日、12月30日の後楽園ホールでの前夜祭(芳の里に勝利)を経て、バディ・オースチンらと共に翌67年1月開幕の「ニュー・イヤー・シリーズ」に参戦、2月6日に札幌中島スポーツセンターにおいて、ミスター・アトミックと組んで大木金太郎&吉村道明組のアジア・タッグ王座に挑戦しました。
68年より、長年の主戦場となるNWAミッドアトランティック地区に定着。シューターとして知られたルター・レンジのパートナーとなり、ジン・アンダーソン、ラーズ・アンダーソン、オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーと抗争を展開、同年1月27日にはバージニア州ロアノーク、29日にはノースカロライナ州シャーロッテにて、ジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。ミッドアトランティック地区では、同じくレスリングの強豪だったティム・ウッズとも度々タッグを組みました。
72年9月カール・ゴッチのブッキングにより、レッド・ピンパネールなる赤覆面のマスクマンに変身して新日本プロレスの「ニュー・ゴールデン・シリーズ」に参戦。この変身は旗揚げシリーズに来日したジム・ドランゴことボブ・アームストロングなどと同様、NWAに非加盟だった当時の新日本プロレスに、アメリカと同じリングネームのまま出場することができなかったためとされています。
シリーズ中は外国人エース格としての扱いで10月9日に広島県立体育館において、猪木の世界ヘビー級王座(同月4日に猪木がゴッチからリングアウト勝ちで奪取したタイトル)に挑戦、27分43秒、猪木の卍固めの前にギブアップ負けを喫しました。
翌10月10日大阪府立体育会館で猪木はゴッチのリターンマッチを受けて23分12秒、体固めでフォール負けしベルトはゴッチに戻されました。
以降も新日本プロレスにはレッド・ピンパネールとして、タイガー・ジェット・シンが初来日した73年5月開幕の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」にも参戦。最後の来日となった74年10月の「闘魂シリーズ第2弾」には素顔でピンパネール名義にて試合に出場し、アンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組みました。
76年8月の新日本プロレス「ブラジル遠征シリーズ」には素顔で参加、8月7日リオデジャネイロ・マラカナ体育館で猪木とシングルマッチで対戦、3分27秒に体固めで敗れました。
※対戦成績は410戦63勝347敗、勝率154。
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