06年、ユークス体制になってから初の東京ドーム大会は興行的には惨敗に終わりました。ユークスの思い切ったコストカットはこの年の1月末の契約更改ではっきりと出てしまいました。
1月末時点で新日本プロレスと契約更改しなかったのは西村修、ヒロ斉藤、後藤達俊、吉江豊、ブルー・ウルフ、長井満也、成瀬昌由、柳澤龍志、竹村豪氏、長尾浩志、安沢明也の11選手に田中秀和(ケロ)リングアナウンサーの退団が決定。
個々の事情はそれぞれ違うものがあるでしょうがプロはお金、大幅な年俸ダウン提示があったことだけは間違いないでしょう。
1月28日後楽園ホールで新春シリーズ「Circuit 2006 Acceleration」が開幕。観衆は1,336人満員発表。試合開始前に田中リングアナからブラック・キャットが亡くなった旨アナウンスがありました。享年51歳。
キャットは本名ビクトル・マヌエル・マル。1954年10月17日メキシコシティ出身の中国系メキシコ人。NWA世界ミドル級王者となったスギ・シトを筆頭としたルチャドール・ファミリーの家に生まれ、スギは伯父。
アレナメヒコのルチャリブレスクールでルチャを学びUWAのハン・リージムで身体を鍛え77年にデビュー。メキシコに遠征に来ていた藤波辰巳の目に留まり81年4月に留学生として来日、新日本プロレスの合宿所に住み込みました。
メキシコではクロネコのリングネームでしたが、日本に来るにあたりブラック・キャットにリングネームを変更。同年4月21日栃木県小山ゆうえんちスケートセンターで日本デビュー戦を行いました。星野勘太郎と組んで木戸修&永源遙組と対戦13分1秒、星野が永源をエビ固めで破っています。
同年にはテレビマッチで初代タイガーマスク、藤波とシングルで対戦しましたが、定位置は前座で若手の壁として君臨、キャットに勝った若手はヤングライオンを卒業しメインイベンターへの道を歩むのは新日本プロレスの伝統でした。提携先であったUWAから来日するメキシコのルチャドールの世話係も務めました。
00年代から負傷が多くなり、また選手も増えてきた為試合出場回数が激減、引退発表をしないままレフェリーに転向。日本で家庭を持っていたキャットはユークス体制になり、自分の居場所がなくなると危惧し、メキシコでルチャリブレの仕事に就こうと毎日、深夜まで現地のルチャドールと連絡を取っていたと言い、職を失い兼ねない状況でストレスと睡眠不足が蓄積したのが死因と言われています。
サムライTVにのニュース番組「Sアリーナ」にゲスト出演した西村はキャットの死を「間接的な他殺です。」と発言し物議を醸しでいます。
開幕戦の後楽園ホール大会メインイベントは本隊vsブラックニュージャパン、中邑真輔&中西学&吉江組と蝶野正洋&天山広吉&ブラック・ストロング・マシン組の対戦。退団する吉江に惜別の大吉江コール、しかし天山のラリアットと蝶野のシャイニング・ケンカキックのサンドイッチ攻撃から22分35秒、片エビ固めで蝶野が吉江からフォール勝ちしています。
2月5日札幌月寒グリーンドームではメインイベントで中邑と棚橋弘至がシングルマッチ30分1本勝負で対戦、棚橋が一瞬にして中邑のバックを取るとドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)、シングル3戦目にして初めて中邑から勝利を奪いました。
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