草間政一社長に代わってから初の新日本プロレス「G1クライマックス」は04年8月7日相模原市立総合体育館で開幕。この年は高山善廣、天龍源一郎、佐々木健介、鈴木みのるの「外敵四天王」が参戦しました。
第2戦の8月8日大阪府立体育会館で高山と健介の外敵同士のBブロック公式戦が実現。同じ66年生まれながら、91年デビューでUWFインター、キングダム、全日本プロレス、ノアとキャリアを積んできた高山と86年デビュー、ジャパンプロレス、新日本プロレス、WJと渡り歩いた健介。
初対決は95年10月28日UWFインターの国立代々木競技場第一体育館大会。当時すでに馳浩とのハセケンタッグでIWGPタッグ王座を獲得、またパワー・ウォリアーとしてホーク・ウォリアーとのヘルレイザーズでも活躍しメインイベンターだった健介とデビュー4年目の中堅、高山とでは実力差があり、7分48秒、ストラグルホールドΓ(ガンマ)で健介が圧勝しました。
02年8月3日同じ大阪府立体育会館でのG1クライマックス公式戦では健介のノーザンライトボムからの体固めで健介に軍配。それから2年、健介は新日本プロレスを退団しWJからフリーに。高山はPRIDEなどの総合格闘技で活躍しながらノア、新日本プロレスでも実績を残しました。
ノアでは02年9月7日大阪府立体育会館で小川良成を破りGHCヘビー王座を奪取、新日本プロレスではNWFヘビー級、IWGPヘビー級王座を獲得、メジャー団体を股に賭けて大暴れし03年には東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」MVPに輝き「プロレス界の帝王」の異名を欲しいままにしています。
リング中央で健介がラリアット、高山がビッグブートを何発も打ち合っていきます。ラリアットとキックの意地のラリー。お互いに耐えるまさに我慢比べ。場外に逃れた高山に、健介はプランチャ。リングに上がると健介はノーザンライトボムならフォールへ、カウント2。高山はフルネルソン・スープレックスからエベレスト・ジャーマン、14分40秒、カウント3が入り高山のフォール勝ち。試合が終わると両者健闘を称え合い握手をかわし抱き合いました。
試合後の控室、高山は首のあたりがコチコチに硬くなり、それまで味わったことのない疲労を感じていたと言います。試合を終え控室の椅子に座りマスコミの取材を受けていたとき、異変は起こりました。頭で考えた言葉が出てこない、取材が終わり立ち上がった瞬間、右手に握っていた勝利者賞の封筒が滑り落ちました。
その後、控室に戻ろうとしたところ、今度はドアノブを扱えず、立ちくらみで倒れてしまいました。周囲のレスラーや関係者が異変に気付き、府立近隣の富永病院へ救急搬送されました。同病院は脳神経治療では国内トップレベルで知られており病院へ運ばれた高山は直ちにカテーテル手術を受けました。
発症から手術までが3時間以内であれば、最小の後遺症で済む可能性が高いと言われる脳梗塞、病院まで救急車で10分以内の距離で発症し、全ての手術を2時間で終えられたため、「高山さんはかなり強運の持ち主だった」と主治医は語っています。
平成中期以降は高山のように団体に所属しない大物フリーレスラーが増加しました。高山の脳梗塞は要因は一つではないと思いますが、ドン・フライ戦を始めとした総合格闘技戦で頭部をノーガードで打たれ続けた結果、脳の血管にダメージを受け血栓が出来ていたことも想定されます。
プロレスラーは団体所属、フリーランスを問わず健康診断に限らず、オプションで脳ドックも受診する必要もあるかと思います。
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