02年は年の初めに大きな事件がありました。武藤敬司が新日本プロレスの契約更改が行われる1月18日発売の1月19日付「東京スポーツ」に「武藤、新日本退団、全日本移籍」が報じられました。
武藤は契約更改の場で新日本プロレスを退団する旨を伝えたことで退団が決定的となり、小島聡とケンドー・カシンが追随して退団、先に退社した経理担当取締役だった青木謙治、ソフト事業部の武田有弘(後のノア社長、現サイバーファイト取締役)、企画部でマッチメークに携わっていた渡辺秀行、ムタのコスチュームをデザインしていたデザイナーの矢部崇寛、営業の神谷昭徳もこぞって全日本プロレス入りが報じられ、心臓部を持ってかれた新日本プロレスは大激震に見舞われました。
97年から一大ムーブメントを起こしたnWoジャパンでの活動に終止符を打った武藤は00年3月にグレート ・ムタとしてWCWに参戦するために渡米、新日本プロレスは99年6月に藤波辰爾が社長に就任するも、オーナーであ猪木の介入で格闘技路線を推進し始めており、新日本プロレスに対する情熱を薄れた武藤は新日本プロレスとの契約が切れたことから、当時のWCWの副社長だったエリック・ビショフの招きでグレート・ムタとしてWCWと契約してました。
ムタを招いた張本人だったビショフが失脚して、人種差別主義者のビンス・ルッソに責任者が代わっており、有色人種嫌いを公言していたルッソは日本人のムタを邪魔者扱いしてきました。マッチメイク権はルッソが握り、TV番組「マンデーナイトロ」の台本もルッソが書いていました。
武藤がアメリカに滞在している間に、日本では橋本真也が新日本プロレスを解雇され新団体ZERO-ONE設立へと動き、猪木の要請を受けた武藤は居心地の悪いWCWに見切りをつけて新日本プロレスへ戻り、頭頂部が薄くなってきた髪の毛もスキンヘッドに剃り上げました。
帰国したばかりの武藤に現場責任者の一人である永島勝司取締役の要請で全日本プロレスに参戦することに。三沢光晴らがノア勢が大量離脱し、所属日本人選手が川田利明と渕正信だけになってしまった馬場元子社長の全日本プロレスとの提携を永島のルートで開始していた。
01年1月28日の全日本プロレス東京ドーム大会に参戦した武藤は最初こそは全日本プロレス参戦には乗り気にはなれなかったものの、元子社長は太陽ケアと対戦して勝利を収めた武藤のプロレスセンスに惚れ込んでしまい、元子社長は永島を通じて武藤に参戦オファーをかけました。
武藤も新日本プロレスのスケジュールの合間を見て全日本プロレスに参戦するようになり、01年6月8日全日本プロレスの日本武道館で天龍源一郎を破り、三冠ヘビー級王座を獲得、同年10月22日同じく全日本プロレスの新潟市体育館でケアと組んで天龍&安生洋二組を破り世界タッグ王座の5冠王に君臨。
さらに10月28日新日本プロレス福岡国際センターでもケアとのタッグで藤波&西村修組を降してIWGPタッグ王座も奪取したことで、両団体を股にかけて活躍。しましたが、自分を必要とし、単独エースとして扱ってくれるな全日本プロレスに居心地の良さを感じるようになりました。
2月1日新日本プロレス北海道立総合体育センターのリング上、蝶野正洋に呼び込まれた猪木は「俺は怒ってる今日は!新日本からしばらく離れている間にいろんなことが起きた。 武藤、馳、そんなことはどうでもいい。それよりも、新日本プロレスの心臓部、それを持って行かれて、俺は怒っている!そしたら蝶野が立ち上がってきた。世の中が光を失った今、 リングの上の戦いでそれを見せる。それが新日本プロレスだ。蝶野、怒ってるか、お前はみんなのこの声はお前に期待しているんだぞ!」と呼びかけました。
蝶野は「会長、俺は新日本で戦うレスラーとして俺は神である猪木に聞きたい。おれはここのリングでプロレスがやりたいんですよ!!」と返す、それは総合格闘技路線へ選手を引き込もうとする猪木に反発した武藤の気持ちを代弁するものでした。
猪木は「俺が引退してから、ちょうど4年になる。この道をいけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし」と「道」の詩の朗読を始めると、
「迷わず行けよ、行けばわかるさ。今の世の中はみんな、夢をなくして 縮こまってしまった。そんな世の中で夢を与えるのが力道山イズムであり、猪木イズムだ。お前達が継いでくれなくて誰が継ぐ!禍い転じて福となす、今お前に教えよう。お前はただの選手じゃない。 プロレス界全部を仕切っていく器量になれよ!」と蝶野を現場責任者にさせる話にすりかえてしまいました。
蝶野の訴えを聴かないどころか、永田裕志や中西学、棚橋、鈴木健三(健想、KENSO)らに「お前は誰に怒っているんだ!」と裏切った武藤への怒りをアピールさせ、中西は「全日に行った武藤です。」と回答
健三は「明るい未来が見えません。」とアピールしましたが、棚橋は「僕はこのリングでプロレスがしたいです。」と回答、しかし本心は「怒りたいのはあんたにだよ」と言いたかったと言います。
武藤らの退団を受けて全日本プロレスとのパイプ役だった永島勝司は武藤退団の責任を追及され退職に追いやられました。永島は退職後は個人事務所「リキナガシマ企画」を設立。「長州力を呼び込むのでは?」と噂されましたが本人は否定。
武藤、小島、カシンは2月9日後楽園ホールでの「エキサイト・シリーズ」開幕戦で全日本プロレス入団挨拶。しかし待ち受けていたのは全日本ファンからのブーイングで、ファンの間では武藤らを受け入れ難い雰囲気となっていました。また川田や和田京平レフェリーを始めとする選手やスタッフも、武藤の移籍は全く極秘とされていたことから、武藤らの突然の移籍に戸惑うしかありませんでした。
2月26日東京・永田町のキャピトル東急ホテルで武藤、小島、カシンに武藤ルートでWCWから全日本プロレスに入団が決まった元みちのくプロレスの獅龍ことカズ・ハヤシが入団記者会見。武藤は「骨値の髄までしゃぶっていただきます」という名セリフを残しました。
フロント入りした経理の青木も全日本プロレスの経理を担当し、全日本プロレスの株式も上場する計画を立てる。ところが、全日本はCS放送のGAORAしかテレビ中継がないのにもかかわらず、馬場時代の慣習で外国人選手には破格のギャラを支払っていました。
武藤らの高額のギャラも支払わなければならないため全日本プロレスの決算状況は青木が想定していたレベルではなく、株式上場どころではなくなり、青木氏も全日本の内部事情を調べなかったことを後悔しつつ、金策に追われる状況となってしまい、武藤全日本は最初から苦しい中の船出となってしまいました。
9月30日付で武藤はやっと元子ら代表取締役の座を譲り受け、10月27日日本武道館での創立30周年記念大会で元子社長は退陣。観客動員に苦しむ中、元子社長も三沢光晴らノア勢に対する意地で30周年までは社長を続けたと思われます。
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