「今のプロレスは危険」(否定派)vs「プロレスは今も昔も危険」(肯定派)と意見が分かれていますが、プロレスは今も昔も危険です。では昔起きなかったことが、平成中期以降現在まで多発しているのは何故か?
プロレス界を取り巻く環境が今と昔とでは大幅に変化してきています。昭和は日本プロレスと国際プロレス、新日本プロレスと全日本プロレス、国際プロレスのように団体が2〜3団体しかなく、レスラーの絶対数が少なかった。84年に新日本プロレスが分裂しUWFとジャパンプロレスに枝分かれしていきましたが、3年ほどで元の鞘に収まり、昭和末期の88年に新日本プロレスを解雇された前田日明が新生UWFを旗揚げしました。
女子プロレスも長年68年に設立された全日本女子プロレスの独占時代が続き、86年8月に第2団体であるジャパン女子プロレスが旗揚げされ、2団体時代になっていました。
新日本プロレスはテレビ朝日、全日本プロレスは日本テレビがいづれも毎週放送されおり、全日本女子プロレスはフジテレビが不定期放送に加えてビューティ・ペアブームの時は毎週金曜日午後7時から30分番組ながらレギュラー番組を持っていたこともあります。
81年3月一杯で東京12チャンネル(テレビ東京)から放送を打ち切られた国際プロレスは崩壊し「テレビのない団体は潰れる」というのが昭和の定説でした。馬場、猪木が自らエースレスラーとしてリングに上がりながら団体を経営出来ていたのも毎週定期的に入るテレビ局からの放映権料が大きくモノを言っていたからです。
88年5月12日後楽園ホールで旗揚げした新生UWFはテレビはついていませんでしたが、前田と懇意にしておりブレーンだった大手芸能プロダクション、マザーエンタープライズの福田信代表の助言もあり「テレビに出ないメジャーアーティストのコンサート」の手法を用いた営業戦略を展開し、旧態依然としていたプロレス界の営業体制を刷新して、ビデオソフトの発売、グッズ収入、地方を回らない大都市中心の月一回興行などを展開し大成功を収めました。
一方で平成に入った89年に4月30日後楽園ホールで全日本プロレスを86年に解雇された剛竜馬率いるインディー団体パイオニア戦志が4月に旗揚げ、10月6日には名古屋市露橋スポーツセンターでは洗練された新生UWFとは真逆な道をいくFMWを大仁田厚が「資金5万円」で旗揚げしました。
翌90年3月1日後楽園ホールではメキシコからルチャドールを多数招聘しユニバーサルプロレスが旗揚げ、新日本プロレス当時からメキシコUWAに太いパイプを持っていた新間寿営業本部長の息子である新間寿恒が代表となり、グラン浜田、新日本プロレスの入門テストに不合格となりメキシコでデビューした日本人ルチャドール、浅井嘉浩が参戦。
天龍源一郎を初め全日本プロレスから選手が大量離脱したことで知られたメガネスーパーが経営母体となった日本初の企業参画型プロレス団体SWSは同年9月29日天龍の出身地である福井市体育館でプレ旗揚げ戦を行い、10月18&19日の横浜アリーナ2連戦で華々しく旗揚げしました。
時代の寵児となった新生UWFでしたが選手と神新二社長を初めとするフロントとの間に不協和音が生じ、前田を中心とした選手主導でやり直すかと思われたものの、91年1月7日仲間に対する不信感が拭えなかった前田が解散宣言をしてしまい、Uは3派に分裂。
藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるらのプロフェッショナルレスリング藤原組、高田延彦、山崎一夫らのUWFインターナショナル、前田のリングスに枝分かれ。
大仁田のFMWもスタッフだった茨城清志、大宝拓治らが離脱して新団体W★INGを8月に旗揚げしこちらも分裂。FMWで外国人レスラーのブッカーをしていたビクター・キニョネス、大仁田のライバルだったミスター・ポーゴが移籍。W★INGはそこからさらに二つに割れましたが、結局茨城が代表を務めるW★INGプロモーションが残りました。
女子プロレスも分裂していきます。92年1月26日埼玉県熊谷市民体育館での大会を最後にジャパン女子プロレスが解散、篠崎清、山本雅俊が共同代表となり、ダイナマイト関西、デビル雅美、尾崎魔弓、キューティー鈴木他のメンバーで4月3日後楽園ホールでJWPを旗揚げ。
風間ルミ、神取忍、ハーレー斉藤、イーグル沢井らはJWPから遅れること4か月後の8月29日後楽園ホールでLLPWを旗揚げ。
老舗全日本女子プロレスはこれら新興団体の誕生をビジネスに結びつけ、工藤めぐみ、コンバット豊田ら旧全女勢が加入して勢力が拡大したFMW女子部をも巻き込んだ4団体での対抗戦を実現させ、ビューティ・ペア、クラッシュ・ギャルズブームに負けない女子プロレスブームを起こしています。
ユニバーサルプロレスは91年11月、エースだった浅井がSWSのメキシコでの提携先だったAAAのアントニオ・ペーニャ代表が考案したマスクマン、ウルティモ・ドラゴンのキャラクターに変身しSWSに移籍したダメージが大きく、92年にはギャラの未払い等の環境に不満だったMASAみちのく(村川政徳)、モンキーマジック・ワキタ(スペル・デルフィン)らが退団、11月27日には村川の地元である岩手県産業文化センターで日本初の地域密着団体みちのくプロレスのプレ旗揚げ戦を行い、村川はマスクマン、ザ・グレート・サスケとしてエースとなりました。
資金50億円が初期投資されたと言われたSWSでしたが選手間の対立が顕著となり92年6月に解散、天龍を中心としたWARとケンドーナガサキ、維新力らが中心となったNOWに分裂、さらにNOWに参加予定だったジョージ高野、高野俊二(拳磁)の高野兄弟は翌93年2月13日愛知県東海市民体育館で新団体PWCを旗揚げしています。どこにも属さなかった谷津嘉章は翌93年8月に社会人プロレス団体SPWFを旗揚げ。地元群馬県に腰を据えた活動をしていきます。
WARの天龍、ザ・グレート・カブキ、石川孝志、SWSで復帰した阿修羅・原、Uドラゴンらは新日本プロレスへ闘いを挑んでいくことで団体存続へ生き残りを賭けて挑みました。
U系3派も再分裂。メガネスーパーのスポンサードを受けて旗揚げした藤原組は92年暮れに藤原とデビュー1年目だった石川雄規、デビュー前の練習生以外の全選手が離脱、新団体パンクラスの設立を発表。93年1月16日後楽園ホールでの大会は試合が3試合しか組めず存亡の危機に晒されましたが藤原はWAR同様、古巣新日本プロレスとの提携に活路を見出しました。
93年3月16日にはユニバーサルの後継団体となったサスケ率いるみちのくプロレスが岩手県矢巾町体育館で本格的な旗揚げ戦を開催しています。
インディー団体の祖となる剛竜馬がエースのパイオニア戦志はオリエンタルプロレス、冴夢来プロジェクト、剛軍団と名前を変えながら存続しました。
94年3月にW★INGプロモーションが活動休止、同団体に外国人レスラーをブッキングしていたキニョネスが全日本プロレスを初めプロレス興行のプロモーターをしていた飲食店経営の浅野起洲(金六)に声をかけIWAジャパンを設立、5月21日横須賀市臨海公園でプレ旗揚げ戦を開催。エースは元オリエンタルプロレスの荒谷信孝でした。
6月にはWARの石川孝志が新団体東京プロレスの旗揚げを発表、WARに相撲軍団嵐(初代)として参戦していた小谷一実(大黒坊弁慶)も参戦。
94年8月、元全日本女子プロレスのカリスマ、長与千種が新団体GAEA JAPANの設立を発表しました。
このように平成になってからわずか6年で数多くの団体が誕生、日本プロレス界は一気に多団体時代となっていきました。
新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレスしかなかった時代に入門テストを受けて不合格になった人も団体が増えればデビューのチャンスは無限に広がり、また上記3団体にかつて所属し、引退、あるいは退団していたレスラーも復帰が可能になり、「プロレスラーになれる」ハードルが低くなりました。
プロレスラーだけでは興行を打つことは出来ず、インディー団体は数少ないフロント、スタッフで回していかねばならず、地方巡業の移動も選手自らトラックを運転してハネ立ち(宿泊しないで次の興行地に向かうこと)をするのが常でした。新日本プロレス、全日本プロレスのように専属のリング屋さんはいません。
直接的なリング禍ではありませんでしたが93年1月8日NOWの若手レスラーだった直井敏光(当時26歳)が深夜、前日の興行開催地だった福井県鯖江市から人手不足もありリング機材を乗せたトラックを運転して、川畑輝(川畑輝鎮)と共に帰京する途中、福井県敦賀市の北陸自動車道上り線で道路の右側斜面に衝突し横転事故を起こした。福井県武生市内の病院に救急搬送されましたが同日12時40分、頭蓋底骨骨折で死亡しています。なお、川畑は左上腕骨と右足に全治6週間の重傷を負ったものの、生命に別状はありませんでした。
インディー団体の過酷な労働環境が引き起こした悲しい事故だったと言えます。
それでも90年代前半はバブルは弾けていたものの日本の景気はまだまだ良く多団体時代になっでも内情はともかくとして共存共栄が図れていました。新日本プロレスはWCWと提携、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士が活躍、全日本プロレスでは三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の四天王+秋山準を加えた五強時代を形成、日本武道館を毎回超満員にしていたいい時代ではありました。(この項続く)
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