85年6月19日東京・世田谷区の池尻大橋にジャパンプロレスの本社兼練習場、合宿所落成記念のお披露目レセプションが行われ、約400人の関係者が出席して盛況でした。
また、同席上で大塚直樹代表はジャパンプロレスと新日本プロレスの間に起きていた契約関係、テレビ放映といった諸問題は全てクリアされたと発表しています。
団体として活動を開始してから半年での新社屋完成はジャパンプロレス、長州力の勢いを証明するものでしたが、物件の所有者はジャパンプロレスのタニマチであった竹田勝司会長であり、ジャパンプロレスから毎月賃料が竹田会長に支払われていたことが後々選手達の間で問題となり、分裂の一因となりますが、この時点ではジャパンプロレスは前途洋々、日の出の勢いにあったと言えます。
6月27日東京・品川のホテルパシフィックで記者会見が行われ、長州のジャパンプロレス社長就任が発表されています。現役レスラーの社長は全日本プロレスの馬場(この時は日本テレビから出向の松根光雄氏が社長)、新日本プロレスの猪木に次いで3人目。
ジャパンプロレスは竹田勝司がオーナー兼会長、大塚は取締役になっています。
この人事で見えて来たのが「ジャパンプロレスの完全独立」と「自由なリング」。大塚は「両巨頭(馬場と猪木)に縛られない団体運営を目指したい。新日本プロレスやUWFの選手が上がれるようなリングとしたい」と理想を掲げ、その為には長州に社長というステータスを用意することで独自にスポンサー集めや日本テレビ以外のテレビ放映の実現に向けて、水面下で活動を開始することになります。
また長州社長就任会見の席上、6月21日日本武道館でタイガーマスクを破りNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座初防衛に成功した小林邦昭が「この日本にNWAの名のつくジュニア・ヘビー級のベルトが2つあるのはおかしい。王座統一戦をやるべき」と新日本プロレスのNWA世界ジュニア・ヘビー級王者であるザ・コブラに対し王座統一戦をやろうとぶち上げました。
しかし、コブラはこの年の8月1日両国国技館におけるドン荒川との防衛戦を最後に王座を返上してしまい、話は頓挫しました。この話は当時NWA第一副会長だった馬場も追認という形で了承していました。
いつもこのような団体間の事前根回しのない挑戦や対戦表明は、新日本プロレスの方から仕掛けるのが恒例でしたが、陣容の優位さもあってか、余裕のあった馬場が黙認した感じでした。ジャパンプロレス勢に出て行かれた新日本プロレスの方がわだかまりを持っていたと思われます。
その一方で、新日本プロレスは坂口征二副社長が手薄になった日本陣営を補強すべく全日本プロレス所属選手、メキシコ遠征中だった越中詩郎を初め、アメリカ、プエルトリコで試合をしていたケンドー・ナガサキ、プリンス・トンガ(キング・ハク)らに引き抜きの声をかけています。
85年全日本プロレス「熱風!サマー・アクション・ウォーズ」は6月28日後楽園ホール(テレビ収録、観衆2,000人発表)で開幕。
長州力以下ジャパンプロレス勢参戦以来、満員、超満員が続いてきた全日本プロレスの後楽園ホール大会でしたが初の満員マークつかず。同日同時刻から新日本プロレスが品川プリンスホテル・アイスアリーナで、ブルーザー・ブロディ初のシリーズフル参戦となる「バーニングスピリット・イン・サマー」開幕戦を開催、3,120人発表の観客を動員、こちらも満員にはなっていませんが、お客さんが2つに割れた感じです。
「サマー・アクション・ウォーズ」のモチーフである「サマー・アクション・シリーズ」旗揚げ2年目の73年夏からシリーズ名に使用され、全日本プロレスのファンにも親しまれて来ました73年は「サマー・アクション」のみで「シリーズ」は名称につかず。74、75、77、78、80年は「サマー・アクション・シリーズ第2弾」、「第2次サマー・アクション・シリーズ」、「サマー・アクション・シリーズ2」など呼び方は異なりますが8月中旬から第2シリーズを開催、ミル・マスカラス、ドスカラスのマスカラス兄弟を招聘し夏休みのちびっ子ファンの期待に応えています。
この由緒正しい「サマー・アクション」の名称を残したのは正解だったと思います。
スタン・ハンセン、クラッシャー・ブラックウェル、テキサス・レッド(ジン・ルイス、ザ・モンゴリアン)、ザ・デストロイヤー(7月5日諏訪湖スポーツセンターより途中参加)、スティーブ・リーガル(後に新日本プロレスのレギュラーとなる元WWEスーパースター、ロード・スティーブン・リーガルことウィリアム・リーガルとは別人)、ジプシー・ジョーの外国人選手が参加。シリーズ中盤戦からハーリー・レイスが特別参加。
ジャパンプロレス勢は米国での警察官暴行事件で傷害罪となり6月6日からウィスコンシン州の刑務所に服役したマサ齊藤以外はフルメンバーが参戦。
全日本プロレス本隊はタイガーマスクが膝の治療の為欠場。タイガーマスクは4月の「激烈!スーパー・パワー・ウォーズ」で膝痛め数日間欠場しましたがすぐに復帰、その後騙し騙し試合に出ていましたが6月21日、日本武道館での小林邦戦でさらに痛めてしまい無念の欠場フリーでメキシコUWA所属のグラン浜田が先シリーズに次いで助っ人参戦しています。
また、神出鬼没だった「ヒットマン」阿修羅・原がシリーズを通して参戦が決定。
開幕戦の後楽園ホール大会の控室で馬場が会見を行い、選手の引退後の生活設計などの福利厚生、負傷欠場の際の治療費の支払などを目的とした株式会社プロレス振興会を設立したことを発表。
これで、プロレス興行会社である全日本プロ・レスリング株式会社、グッズ販売を主体とするジャイアント・サービス株式会社、リング輸送、組み立ての株式会社B&J、プロレス振興会と4社のグループ会社を持つことになりました。
マイティ井上が生前よく話していた「馬場さんが厚生年金を掛けてくれていたから(老後の生活が)助かった」という話はこの時期に確立されたかと考えられます。
井上は浜田とのタッグでジャパンプロレスの小林邦&仲野信市組と対戦10分18秒、井上がサマーソルト・ドロップからの片エビ固めで仲野からフォール勝ち。
この時点で井上がNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者の小林邦に対して挑戦をアピールするようなことはなく、元王者であるにも関わらずジュニア戦線からは外されました。
開幕戦メインイベントは馬場と石川敬士がタッグを組み、ハンセン&ブラックウェル組と対戦。コーナーに振られた石川にブラックウェルが180kgの体重を利しての強烈な体当たり。そこへハンセンが伝家の宝刀、ウェスタン・ラリアット1発。6分48秒、ハンセンが石川を片エビ固めに決めてハンセン&ブラックウェル組の勝利。
この試合で実は馬場がダウンしたブラックウェルにコーナーポスト最上段からのダイビング・フットスタンプを見舞うのですが、ブラックウェルの大きなお腹が柔らかかったのか、ブラックウェルのお腹の上でバランスを崩して転倒、館内から大きな失笑が起きてしまい、見てはいけないものを見せられた気分になってしまいました。
セミファイナルは鶴田&大熊元司組と長州&谷津嘉章組の対戦。10分14秒、長州がリキラリアットからの体固めで大熊をフォールし、社長就任第1戦を白星で飾りました。
セミ前に組まれたのは孤独のヒットマン、阿修羅・原と長州同様「ターゲットとしていく」と語った天龍とのシングルマッチ。
両者はこれまでシングルで3度対戦。対戦成績は天龍の1勝2分。4度目のシングルマッチとなりましたが今回はシチュエーションが全く異なります。天龍の背中をロープ際に固定した原はショルダータックル、これで天龍は場外に転落。原はこれを追って場外へ。エキサイトした原はイスを持って天龍の背中と頭部を痛打。イスを持ったままリングに上がる原。
「イスを放せ」と注意するレフェリーを無視して上がって来た天龍をイスで殴り付けました。天龍はこれに切れて反則のナックルパンチで原の顔面を殴り、乱闘に。収拾がつかなくなり14分37秒、ノーコンテストの裁定が下りました。
第8戦は7月8日新潟県長岡市厚生会館(現アオーレ長岡、テレビ収録、観衆4,100人満員発表)大会。
井上は佐藤昭雄と試合巧者同士のタッグを結成、剛竜馬&アポロ菅原組の国際血盟軍との対戦、8分55秒、井上がサマーソルト・ドロップ2連発から菅原を体固めで降し井上&佐藤組に軍配があがりました。
メインイベントでは馬場&鶴田組の師弟コンビが今シリーズ2度目の2人だけのタッグを結成、ハンセン&ブラックウェル組の強力タッグと対戦。
ハンセン&ブラックウェル組はインターナショナル・タッグ王座に挑戦してもおかしくない強豪チームです。ブラックウェルが巨体を利した体当たりで鶴田をダウンさせると、180kgの身体で軽々とコーナーポスト最上段に昇り、宙を舞ってのダイビング・ボディプレス、しかしこれは鶴田が間一髪かわして自爆。すかさず鶴田がジャンプしてのボディプレスで押さえ込み、10分33秒、鶴田がブラックウェルを体固めでフォールし馬場&鶴田組が勝利を収めています。
セミファイナルは天龍&石川&ハル薗田組と長州&谷津&アニマル浜口組が激突。13分18秒、長州が薗田をリキラリアットからの体固めに決めてジャパン軍団に軍配が上がっています。
セミ前に組まれたのはNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級選手権試合、小林邦にスティーブ・リーガルが挑戦。11分27秒、小林邦がリーガルをロープに飛ばしての膝にサイドキックからのフィッシャーマン・スープレックスホールド(網打ち式原爆固め)でカウント3を奪い快勝。2度目の防衛に成功しています。
グラン浜田は7月5日の諏訪湖スポーツセンター大会での試合で肋骨にヒビが入り、翌6日の上田市民体育館から欠場していましたが回復せずメキシコに帰国してしまいました。以後、全日本プロレスへの参戦はなく、これが一旦は最後の全日本プロレスシリーズ参戦となっています。(2004年に武藤敬司体制になってからミニ・ラブマシンとして参戦)
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