第361戦、10月16日発売号●【予想】藤波、地元大分でジュニア卒業マッチ、WWFジュニア・ヘビー級選手権試合、藤波辰巳vsスティーブ・トラビス(81年新日本プロレス大分県立総合体育館)【正解】マサ斎藤、サンダー杉山を輩出した1964東京五輪の偉業(64年)
※参考 2019年10月16日発売号は●【予想】蔵前興行戦争の翌週にもあった大分興行戦争。(81年10月15日全日本プロレス大分県立荷揚町体育館、同16日新日本プロレス大分県立総合体育館)【正解】全日本が“馬場ファミリー”のテイストを出せなかった理由、馬場、百田家から力道山ゆかりのインターナショナル王座ベルトを寄贈される(72年全日本プロレス永田町・東京ヒルトンホテル現キャピトル東急ホテル)この時点での対戦成績は107戦21勝86敗、勝率196。2013年10月16日発売号はインターナショナル・タッグ選手権試合、鶴田&天龍組vsテリー・ゴディ&マイケル・ヘイズ組(84年全日本プロレス富山市体育館)
【予想解説】5年前の2019年10月16日発売号では、81年の10月8日新日本プロレス、10月9日全日本プロレスの蔵前国技館での興行戦争から僅か1週間後に起きた「大分興行戦争」について予想しています。
こちらは先攻は全日本プロレスの10月15日大分県立荷揚町体育館で鶴田vsジミー・スヌーカのUNヘビー級選手権試合(2−1で鶴田の防衛)をメインに4,200人満員発表の観衆を動員、後攻は翌10月16日大分県立総合体育館での新日本プロレスでこちらはテレビ生中継、観衆5,500人超満員発表となり「新日本プロレスブーム」と言われる興行人気の高さと藤波の地元ということで新日本プロレスの勝利となりました。
今回は藤波の最後のWWFジュニア・ヘビー級選手権試合に絞って予想しました。前々回、本連載(38)で書いた通り、78年1月23日、ニューヨークMSGでカルロス・ホセ・エストラーダを破りWWWFジュニア・ヘビー級王者となり凱旋帰国、ドラゴンブームを巻き起こした藤波。
マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)、テッド・アダムス、ジプシー・ロドリゲス(2回)、エル・ゴリアス、コロソ・コロセッティ、カルロス・マタ、剛竜馬(2回)、アーマンド・ゲレロ、レイ・メンドーサ、チャボ・ゲレロ、エストラーダ、パイパー、エディ・マンスフィールド、トニー・ルッソー、ペーロ・アグアヨ、エル・ソリタリオ、カネック(2回)、トニー・ロコ、シン・リーガン、スキップ・ヤング、ダイナマイト・キッドを相手に24度目の防衛に成功。
79年10月2日大阪府立体育会館で剛に敗れ王座を失ったものの、2日後の10月4日蔵前国技館で直ぐに奪回を果たし、以後再び快進撃。
星野勘太郎、グレッグ・バレンタイン、木村健吾(2回)、ジョニー・リベラ、アンヘル・ブランコ、スティーブ・カーン(2回)、キッド(2回)、剛、阿修羅・原、フィッシュマン、チャボ(2回)、トム・プリチャード(2回)、ロコ、ロン・スター、ドン・ダイヤモンド、ケン・ウェイン、レス・ソントン(2回)、スタンリー・レーン(2回)、ソリタリオと27回連続防衛を果たしました。海外での防衛戦では人選に問題のあった挑戦者もいますし、体重が見るからにヘビー級という挑戦者もいましたが、当時のジュニアの世界のトップクラスを次々と倒し、もはや「ジュニアに敵なし」となりヘビー級への転向が噂されておりました。
この日はWWF期待の新星、トラビスが挑戦。2度目の来日都なるトラビスは本名スティーブ・モリソン、1950年12月13日バージニア州シャーロッテヒル出身の当時30歳、77年にジム・クロケットのNWAミッドアトランティック地区でデビュー、78年にWWWF地区に転戦し4月24日、ニューヨークMSGでNWA世界ヘビー級王者、ハーリー・レイスの「NWA世界王者16年ぶりのMSG登場」の相手に大抜擢され、8分57秒、体固めで敗れましたが、この年のWWWFルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得しました。
80年「第3回MSGシリーズ」に初来日、この時は予選トーナメントから出場予定だったハルク・ホーガンがスケジュールの都合がつかず、中盤から特別参加に変更され、代わりにトラビスが予選に出ることで急遽来日が決まったものでした。4月25日後楽園ホールの開幕戦ではメインイベントでスタン・ハンセンのタッグパートナーに抜擢され猪木&坂口征二組の黄金コンビと対戦、1−1から両チームリングアウトで引き分けています。
しかし、トラビスはどう見てもジュニアには見えません。ヘビー級転向秒読みといわれていた藤波はトラビスを寄せ付けず、場外に転落したところにドラゴン・ロケット(トペ・スイシーダ)を決めて、最後はエプロン越しのブレーンバスター、13分50秒、体固めでフォール勝ち、28度目のタイトル防衛を果たしています。
この防衛戦が藤波の「ジュニア卒業マッチ」となり11月5日蔵前国技館で正式にヘビー級転向を表明、WWFジュニア・ヘビー級王座を返上しました。
【正解解説】今回はプロレス史というよりアマレスの話題、昨年2024年はパリ五輪の年で日本選手は男女合わせて合計20個の金メダルを獲得、うち8個がレスリング競技でした。
本稿では、それより60年前に遡る64年の東京五輪の話題。64年東京五輪では最重量級(97Kg以上)のフリースタイルに明治大学の齋藤昌典(当時22歳、マサ齋藤)、同じく最重量級のグレコローマンスタイルに同じく明治大学の杉山恒治(当時24歳、サンダー杉山)が出場、共に3回戦で敗退となっていますが、オリンピック出場選手がプロレスラーに転向したのはこの時の齋藤、杉山が最初であり、歴史の転換点と言えるオリンピックでした。
その後、72年ミュンヘン五輪の鶴田友美(中央大学、当時21歳、ジャンボ鶴田)、吉田光雄(専修大学当時21歳、長州力)、76年モントリオール五輪の谷津嘉章(日本大学、当時20歳)、84年ロス五輪の馳浩(当時23歳)、84年ロス、88年ソウル、92年バルセロナ五輪の本田多聞(日本大学、陸士自衛隊)、92年バルセロナ五輪の中西学(当時25歳、専修大学)などオリンピアンがプロレス界に入りました。
プロレスとアマレスの橋渡しをしたのは日本アマレス協会会長であった八田一朗元衆議院議員であり「プロが栄えれば、アマも栄える」という名言を残しました。
流さんは「プロレスとアマレスは完全な別物と定義づけるのは簡単だとは思うが、私は全くそうは思わない。基本にあるものがレスリングである以上、別物であるはずがない」と本稿の締め括りに書かれておりますが、そこは基本的には私も同意です。
アマレスをみっちりやったプロレスラーは基礎体力があり、永田裕志、杉浦貴らも50歳を超えても超人的なスタミナを誇っており、やはりノンキャリ組とは全然違うと言っていいでしょう。
※対戦成績は361戦58勝303敗、勝率161。
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