第359戦、10月2日発売号●【予想】「プロレスバカ」がジュニアの頂点に立った日、WWFジュニア・ヘビー級選手権試合、藤波辰巳vs剛竜馬(79年新日本プロレス大阪府立体育会館)【正解】2団体時代幕開け初日に龍原砲のルーツとなる名勝負、天龍源一郎vs阿修羅・原(81年全日本プロレス後楽園ホール)
※参考 2019年10月2日発売号は●【予想】今回正解に同じ、全日本プロレス参戦の阿修羅・原が天龍と初対戦(同)【正解】馬場と猪木が16回目、最後のシングルマッチ!馬場vs猪木(63年日本プロレス足利市月見ヶ丘学園体育館)この時点での対戦成績は105戦20勝85敗、勝率190。2013年10月2日発売号は力道山、インター王座初防衛戦、インターナショナル選手権試合、力道山vsドン・レオ・ジョナサン(58年日本プロレス蔵前国技館)
【予想解説】「プロレスバカ」剛竜馬さん(本名・八木宏)が敗血症の為53歳という若さで亡くなってから2024年でちょうど15周忌(1956年3月23日生〜2009年10月18日没)。剛と言えば「ショアッ!」の掛け声でお馴染み、「パイオニア戦志」を旗揚げした日本プロレス界のインディペンデントの祖として有名ですが、波乱万丈のレスラー人生を送りました。
中学校を卒業した71年に15歳で日本プロレスに入門、藤波とは既にこの時に知り合っています。デビューせずに退団し国際プロレスの練習生となり72年9月にデビューを果たし翌73年から弱冠16歳で海外武者修行に出発し76年7月に凱旋帰国、リングネームを剛竜馬に改め、20歳の国際プロレス若手のホープとして期待されましたがその後は鳴かず飛ばず。
78年4月に国際プロレスの巡業から抜け出して欠場、5月11日全日本プロレスの大阪府立体育会館に姿を現しフリー宣言、在米フリーの大物ヒロ・マツダを頼り渡米、マツダ門下として藤波のWWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦表明。両者のタイトル戦は7月27日日本武道館で実現、24歳の王者藤波に22歳の挑戦者剛というフレッシュな対決はスピード感溢れる好試合となり13分52秒、藤波がジャーマン・スープレックスホールドで勝利。
78年11〜12月の「プレ日本選手権」の11月30日広島県立体育館でベルトを賭けた再戦が行われ、17分56秒、藤波がドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)で返り討ちに遭い、12月4日鹿屋市体育館でのプレ日本選手権予選リーグ戦では9分38秒、逆さ押さえ込み、12月8日徳山市体育館での通常のシングルマッチでは11分43秒、回転足折り固めでいずれも藤波がフォール勝ちでシングルは藤波の4戦4勝。
「プレ日本選手権」以来、日本のリングから離れていた剛は原点に帰りフロリダ州タンパのヒロ・マツダの道場で鍛え直し、カナダのモントリオールを中心としたテリトリーで実戦特訓を積みながら打倒・藤波目指してチャンスを伺っていました。
しかし、地力では明らかに藤波が上、グラウンドでも好きにはさせてはもらえません。しかし、タイトル戦含めてシングル5連敗では次のチャンスすら与えられないでしょう。
剛は気力を振り絞って、場外の藤波めがけ、コーナーポスト最上段からのプランチャ・スイシーダ、リング内での攻防でも粘りを見せます。焦った藤波はエルボースマッシュで突破口を見出そうとしましたが、攻撃が粗くなったか。剛はエルボースマッシュに来た藤波の腕を捕らえるとバックに廻り込み、電光石火の逆さ押さえ込み、16分53秒、カウント3が入りました。
藤波の肩はカウント3寸前で上がったようにも見えましたが、判定は覆らず、剛が3度目の王座挑戦でついにタイトルを獲得しています。藤波は25度目の防衛に失敗、1年10か月で王座転落です。
この試合映像を見ると、藤波のエルボーが段々と粗くなり、藤波が苛立っているのが分かります。まるで剛に「このヘタクソ!腕出してやってるんだから早く丸め込めよ!」と言っているかのようでした。
この日は新日本プロレスのフロントの手違いで港区南青山のオフィスにあったWWFジュニア・ヘビー級のチャンピオンベルトが会場に届かず、剛はベルトを巻くことはできませんでした。
第4代王者となった剛はシリーズ最終戦の10月4日、蔵前国技館で藤波のリターンマッチを受け14分13秒、回転足折り固めでフォール負けし2日天下に終わりました。
【正解解説】81年8月9日、北海道・羅臼町民グラウンドで興行活動停止となった国際プロレス。選手達の今後の身の振り方が注目されましたが、吉原功代表は早稲田大学レスリング部の先輩でありテレビ朝日から出向していた永里高平新日本プロレス専務に選手全員を預ける方向で話を進めていました。
しかし、マイティ井上は「猪木さんのやり方が好きではない」と新日本プロレス行きを拒否。10月8日、蔵前国技館で予定されていた新日本プロレスと国際プロレス(団体は消滅しており、名前だけ)の全面対抗戦は出ないと宣言。
蔵前大会の記者会見は9月7日、新宿・京王プラザホテルで行われ、新日本プロレスからは坂口征二副社長、永里専務、新間寿営業本部長が出席、国際プロレスは吉原元社長、ラッシャー木村、アニマル浜口、阿修羅・原が出席。猪木vsR木村、藤波vs原、タイガーマスクvsマッハ隼人等のカードが発表されました。
9月16日には全日本プロレス事務所にてM井上が菅原伸義、米村天心(参加せず)、冬木弘道と共に全日本プロレス移籍を表明しています。
京王プラザホテルでの会見後、故郷長崎に帰っていた原は「ヘビー級の俺が何で今更ジュニアの藤波とやらなくてはいけないんだ」と新日本プロレスとの対抗戦をキャンセル、同時に「俺と大してキャリアの変わらない天龍が全日本所属と言うだけで(リック)フレアー(のNWA世界ヘビー級王座)に挑戦出来るなんておかしい。天龍は俺と闘って勝ったらフレアーに挑戦すればいい。」と矛先を全日本プロレスの天龍に向けて来ました。
馬場は原に天龍と対戦する機会を与え、10月2日、後楽園ホールでシングルマッチが実現。真っ向勝負の肉弾戦で16分38秒、両者リングアウトの引き分け。この試合を見て原を高く評価した馬場は原を全日本プロレスに入団させています。
原がレスラー引退後、滅多にないムック本での取材に応じ「あの時は藤波には悪いことをした」と後悔する発言をしているのは自業自得とはいえ、借金問題で馬場に切られ、収入源を失ったことに対する慚愧の念も混じっていたに違いありません。
※対戦成績は359戦58勝301敗、勝率162
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