第356戦、9月11日発売号●【予想】猪木、ハンセンの延髄へのラリアートで失神、NWFヘビー級選手権試合、猪木vsスタン・ハンセン(80年新日本プロレス大阪府立体育会館)【正解】「馬場の盟友」デストロイヤーと猪木の隠された友情、猪木vsザ・デストロイヤー(65年9月10日=現地時間、テキサス州バーモント・シティ・オーデトリアム)
※参考 2019年9月11日発売号は【予想】UWFラストマッチ、藤原喜明vsスーパー・タイガー(85年UWF後楽園ホール)【正解】交通事故で重傷の大木が韓国で死闘4連戦、大木金太郎、NWA加盟記念ツアー(76年9月8日仁川市体育館〜11日平沢市国民小学校校庭)この時点での対戦成績は102戦20勝82敗、勝率196。2013年9月11日発売号は「覆面世界一」を懸け“魔王”が最後の防衛戦PWF認定USヘビー級選手権試合、ミル・マスカラスvsザ・デストロイヤー(78年全日本プロレス盛岡・岩手県営体育館)
【予想解説】ハンセンの「怪物化」が顕著になったのは80年というのは皆様ご納得頂けるかと思います。今回から3週連続で猪木vsハンセンを予想しました。
「新春黄金シリーズ」最終戦2月8日東京体育館でエプロンにいた猪木をウエスタンラリアートで倒し17分12秒、リングアウト勝ちしNWFヘビー級王座を獲得。
「ビッグ・ファイト・シリーズ」4月3日蔵前国技館でのリターンマッチでは12分55秒、猪木のブレーンバスターからの体固めで王座を奪われるもタイガー・ジェット・シン以外に成し遂げられなかったNWFヘビー級のベルトを奪取したことでハンセンは新日本プロレスのトップ外国人の座に昇りつめました。
「第3回MSGシリーズ」でも両雄はNWFヘビー級王座を賭けて対戦、5月9日福岡スポーツセンターでの一戦は猪木が防戦一方の末、17分30秒に反則勝ちを拾い初防衛に成功。
6月5日蔵前国技館での「第3回MSGシリーズ」優勝決定戦もこのカードとなり、ハンセンのセコンドについたハルク・ホーガンの介入で7分49秒に反則勝ちで何とか3連覇を果たしました。
「もう猪木はハンセンを実力でねじ伏せることは出来ないかも知れないな」と私はその時強く実感、別冊ゴング80年7月号でもハンセンの特集記事が組まれるなどこの年ハンセンは一気にブレイクしています。
8月22日品川プリンスホテル・ゴールドホールで開幕した「ブラディ・ファイト・シリーズ」では猪木とハンセンのNWFヘビー級選手権試合2連戦が組まれました。初戦は9月11日、大阪府立体育会館大会。ハンセンは膝、肘を使って猪木にエグい打撃攻撃を加えていきます。15分過ぎ、両者場外へ。ハンセンの鉄柱攻撃をかわした猪木は、素早くリングインしようとしましたが、ハンセンはリング下から猪木の足を引っ張ってこれを阻止にかかりました。
すると猪木は後ろ向きの状態からハンセンに両足でキック、一瞬ハンセンが手を離しました。その隙にリングイン、レフェリーのミスター高橋はカウントを20数え、17分47秒、猪木のリングアウト勝ち。ハンセンもすぐにリングに上がりましたが一歩及ばず、猪木が3度目のタイトル防衛に成功しました。
猪木が、勝利の「ダァーッ!」をやろうとしたところ、背後から突進してきたハンセンが猪木の延にウェスタン・ラリアート、不意を突かれた猪木はダウンし失神、どちらが勝者かわからないバッドエンドになっています。
猪木は頭痛と悪寒を訴えながらも9月13日埼玉県所沢市青果市場、14日福島県白河市城山公園跡特設リングの2大会には無理をして出場しましたが15日の新潟県新発田市体育館大会の試合前に体調不良を訴えて欠場、東京に戻りました。
【正解解説】デストロイヤーと言えば親馬場派として知られ72年12月19日新潟市体育館で馬場との「世界ヘビー級王座争奪戦十番勝負」第4戦で馬場に1−1からリングアウト負けし、当初の約束であった「負けたら馬場の軍門に降って何でも言うことを聴く」を履行し、旗揚げしたばかりで日本人レスラーが手薄だった日本陣営に参加。
73年3月にはウィルマ夫人、長男カート、長女モナクリスと共に日本に移住し全日本プロレスのリングにレギュラー参戦、79年6月まで実に6年3か月の長きに亘り活躍。帰国後も定期的に全日本プロレスに来日し93年7月29日日本武道館で馬場&息子のカート・ベイヤーとのトリオで 渕正信&永源遙&井上雅央組と引退試合を行い、13分8秒、デストロイヤーが雅央を足4の字固めで破り、63歳で引退しています。
99年1月31日に馬場が死去、02年10月27日日本武道館での創立30周年記念興行にゲストで来日しましたがこの大会で馬場元子社長が退陣し、経営は武藤敬司に一任されることになりました。
武藤体制になってからはデストロイヤーと全日本プロレスの関係は切れ07年12月20日IGF有明コロシアム大会にゲストとしてデストロイヤーが招かれました。
猪木とデストロイヤーは海外武者修行時代にテキサス州で一緒だった時期があり、本稿で採り上げられている試合は65年9月10日(日本時間11日)テキサス州バーモントシティでのシングルマッチ60分3本勝負。
1本目は7分11秒、猪木がネックブリーカー・ドロップからエビ固め、2本目は4分56秒、デストロイヤーが足4の字固め、決勝の3本目は6分11秒、両者リングアウトとなり、1−1の引き分けとなっています。
猪木は海外武者修行に出て1年半、22歳という若さで亡き師匠力道山と激闘を展開したデストロイヤーと引き分けるという快挙を成し遂げています。
猪木は馬場が亡くなっからデストロイヤーについて「デストロイヤーは日本プロレス時代は馬場さんのライバルであり、全日本プロレスではタッグパートナーとして長く闘っていたので、現役だった頃の私は彼に対するコメントは差し控えていた。
しかし、実は私とも色々な局面で深く関わっていた人物で、例えばロサンゼルスやテキサスでは何度も闘ったし、私がロサンゼルスからオレゴンに転戦した時も彼がプロモーターであるドン・オーエンに私を強く推薦してくれたことから実現したものだった。アメリカでは世話になったので日本に来た時は恩を返した。」と語っています。
新日本プロレスと全日本プロレスに分裂した後は馬場に雇われたデストロイヤーとコンタクトを取ることは出来なかったですが、下積み時代に接点があり切磋琢磨してリング上では闘いながらもリング下では友情が育まれていきました。
同じような話ではハワイ修行時代の猪木とPWF初代会長ロード・ブレアースの友情エピソードもありました。
※対戦成績は356戦58勝298敗、勝率163。
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