81年9月17日付(16日発行)の「東京スポーツ」には9月7日に行われた新日本プロレスと国際プロレスの対抗戦の発表記者会見に出席しなかったマイティ井上が取材に応じ、国際プロレスを退団、フリーとなったことを明かし、10月8日蔵前国技館で行われる対抗戦には出ない、と表明しています。
今後の身の振り方として井上は「海外に行きたい」と言っていましたが…。
その「東京スポーツ」が発行された9月16日の昼間に港区六本木の全日本プロレス事務所にて記者会見が行われ、馬場代表が出席の元、興行活動休止となった国際プロレスの井上、米村天心、菅原伸義(アポロ)、冬木弘道の4選手の参戦が発表されました。この時点では即所属になったとは書いていませんが事実上の入団会見と言えます。
国際プロレスの吉原功社長は興行活動停止に関して自主再建は断念、早稲田大学レスリング部の先輩にあたる永里高平専務(テレビ朝日より出向)に所属選手全員を預ける腹づもりでした。
しかし井上は「今まで会社に貢献してきたのだからこれから好きなようにやらせてもらう」と吉原社長の意に反して新日本プロレスとの対抗戦出場を拒否、馬場と良好な関係にあった雑誌「ゴング」の竹内宏介氏に依頼し全日本プロレスヘの移籍を打診、馬場の了解を取り付けました。
81年新日本プロレス「ブラディ・ファイト・シリーズ」最終戦の行われた9月23日田園コロシアムの試合前に新間寿営業本部長から10月8日蔵前国技館大会で行われる「創立10周年記念興行第3弾 新日本プロレス対国際プロレス全面対決」のカード変更発表がありました。
発表済カードは対抗戦が猪木vsラッシャー木村、藤波辰巳vs阿修羅・原、タイガーマスクvsマッハ隼人、長州力vsアニマル浜口、星野勘太郎&剛竜馬組vs寺西勇&鶴見五郎組。スペシャルマッチがスタン・ハンセン&ハルク・ホーガン組vsアレックス・スミルノフ&バッドニュース・アレン組。
発表の前に新日本プロレスと全日本プロレスの両団体に参加が発表されていたスミルノフについて二重契約が判明、新日本プロレスは吉原功国際プロレス社長、ブッカーの大剛鉄之助を通して参加の約束を取り付けていましたが、全日本プロレスもザ・デストロイヤーが交渉にあたりスミルノフは契約を交わしていると主張。
猪木から「二重契約をするようなレスラーは日本のプロレス界がボイコットしなければならない。そこまでして欲しい選手ではない。」との話があり、ウチは招聘しないことにした、とコメント。スミルノフの新日本プロレス参戦はなくなりました。
変更後対戦カードは猪木vsR木村、ハンセン&ホーガン組vsディノ・ブラボー&長州組、敗者覆面剥ぎマッチタイガーマスクvsマスクド・ハリケーン、藤波vs寺西、坂口征二&ストロング小林組vsビリー・クラッシャー&アレン組、剛vs浜口、星野&グラン浜田&ジョージ高野組vsエル・シグノ&エル・テハノ&ネグロ・ナバーロ組、永源遙vsディック・マードック、前田明(日明)vsジ・アサシンの全9試合となりました。
国際プロレス勢は原、マッハ、鶴見の名前が消えて当日田園コロシアムの会場に姿を現したR木村、浜口、寺西の3選手のみとなり弱体化。「全面」対抗戦とは程遠いカードになりました。
そんな中で藤波との対戦が発表されていた原は9月7日新宿・京王プラザホテルでの記者会見に出席者後、故郷である長崎に帰っており、9月24日東京スポーツの取材に応えています。(一部他媒体からも引用)
原は「ヘビー級の俺が何で今更ジュニアの藤波と対戦する意味はない。俺はWWU世界ジュニア・ヘビー級のベルトを返上している身、ヘビー級として頂点に立ちたい。フリーとして海外で暴れてみたいと思っている。その為には全日本プロレスのルートを使わせてもらうことも考えている。
自分と大して年齢もキャリアが変わらない天龍が全日本プロレス所属というだけで(リック・)フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦出来るなどおかしい。天龍は俺と闘って勝ってから挑戦しろ!」と矛先を急に天龍源一郎と全日本プロレスに向けてしまい、これで新日本プロレス参戦の目はなくなり、全日本プロレスへの参戦が濃厚になりました。
国際プロレスは9月25日、負債総額2億5千万円を残して倒産。このニュースは一般新聞にも掲載され、話題になりました。
この後もプロレス団体の崩壊というのは多数ありますが、企業として倒産したのは私の知る限り、この時の国際プロレスと2002年のFMW、2005年の全日本女子プロレスだけです。
吉原社長は「敗軍の将、兵を語らず。15年間、やって来て残ったのは2億5千万の負債だけ。うちには馬場も猪木もいなかった。花と散る!」という言葉を残しました。
グレート草津は前80年7月に右足アキレス腱切断で事実上の引退でフロント職におり、82年には日本バスコンの営業部長として再就職。浜口は肝炎の為欠場、若松市政は試合が組まれておらず。
団体崩壊後、R木村、浜口、寺西は新日本プロレスへ、原、井上、菅原、冬木は全日本プロレスへ。鶴見は西ドイツを経て全日本プロレス、M隼人はメキシコを経て全日本プロレス→UWFへ。
若松は80年に地元、北海道芦別町で海外壮行試合をやった時に餞別をもらっている手前、海外に行かない訳にはいかないと自費でカナダ・カルガリーに渡り、マネージャーとして新日本プロレスに参戦。
米村は1度は全日本プロレス入りを決意、M井上、菅原、冬木と共に移籍記者会見の場にいましたが入団せず会津若松でちゃんこ料理店「やぐら太鼓」を開業、フリーとして全日本プロレスの会津大会にスポット参戦。
53歳で持病のある珍とデビューしたばかりの秋吉は引退となっています。(珍は92年FMWで復帰)インディー団体のない時代ですから、上がれるリングは、なかったでしょう。
原、井上、菅原、冬木の4選手は10月2日後楽園ホールで開幕の「創立10周年記念ジャイアント・シリーズ」から全日本プロレスのリングに登場。
開幕戦の後楽園ホールで井上はプリンス・トンガと組んで国際プロレス時に対戦経験のある上田馬之助&スミルノフ組と対戦し5分48秒、反則勝ち。
原はセミファイナルで天龍とシングルマッチで対戦、一歩も引かぬラフファイトで「ダンプガイ」の面目躍如、16分53秒、両者リングアウトで引き分けました。
4選手は10月7日横浜文化体育館大会から正式に全日本プロレス所属となりました。
10月9日蔵前国技館では「4大スペシャルマッチ」の一つとして井上はミル・マスカラスが保持する国際プロレスの看板タイトルと同名のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。格下扱いし技を受けないマスカラスとはやり辛そうでしたが9分19秒、コーナーポスト最上段からのダイビング式サマーソルト・ドロップをかわされ、コーナーポスト最上段からのダイビング・ボディアタックからの体固めでフォール負けを喫しています。
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