81年5月12日、全日本プロレス第3の男「野性の虎」タイガー戸口が韓国遠征(5月5日、ソウル市奨忠体育館で大木金太郎と復活アジア・ヘビー級王座決定戦を行い敗戦)を途中で切り上げて日本に帰国。
5月14日、「東京スポーツ」の取材に応じた戸口は全日本プロレスを退団、フリーになり新日本プロレスのIWGPに参戦表明を果たしています。
5月17日付(16日発行)の東スポに戸口のインタビュー記事が掲載されているので引用してみたいと思います。聞き手は川野辺修記者。
−「なぜ韓国遠征を途中で切り上げてきたのか?」
戸口「別に意味はない。最初から予定の行動だよ」
−「しかし、何が表情が活き活きとしているね。何かあったのだろう?」
戸口「参ったな〜、そこまで言われちゃ俺としても黙ってる訳にはいかない。いずれ遅かれ早かれわかることなんだから言うよ。タイガー戸口は4月6日付で全日本プロレスを円満退社致しました。以後は、以前のキム・ドクに戻ったつもりで一匹狼、フリーとしてプロレス活動を続けていきます」
−「えっ、本当?」
戸口「冗談なんか言えるか、本当だよ」
−「今後の身の振り方については?」
戸口「5月19日からオーストリアのリングで40日間ぶっ通しのプロレスのトーナメントがあるから、それに出場します」
−「そんなことはわかってるよ。全日プロとの契約に関して問題はないの?」
戸口「知人の弁護士に頼んでよく検討してもらった結果、問題は何一つ残ってない。だから言ったろう、円満退社だって。俺はもうフリーだ」
−「何が原因なの?」
戸口「そりゃいろいろあるが、俺は終わったことにはこだわりたくないからそれは言わない。言ったところで何一つとしてよくなることは何もないはず。それより今後のことで頭が一杯なんだ」
−「それはズバリ、新日プロが『戸口よ、勇気があるならIWGPに参戦してこい!』と呼びかけたことに関係があるの?」
戸口「ウーン…IWGPに出場する為に全日プロを辞めたんではない、ということを前提に話を進めよう。新日プロが俺の力を買ってくれたということについては悪い気はしていない。しかし、あの時点でこんなふうになるとは思わなかった」
−「ということは、IWGPに参加する?」
戸口「する、しないは俺の一存で決めることはできない。昨日(13日)、IWGP大会実行委員長である新間氏に俺自身で連絡を取った。そうしたらある程度の感触があったとしか言えない。具体的な話し合いはこれからなんだ。」
−「なぜIWGPに参加したいと決意したのか?」
戸口「まず、何と言っても自分の力を試してみたかったんだ。だから俺はアジア・ゾーンから参加させてくれ、とだけ言った。猪木さん、坂口さん、藤波、長州らと力いっぱいファイトしてみたいからね。当然、勝つ自信はある。俺もそんなに若くないし、やるなら今しかないんだ」
−「ブッチャーに次いでの衝撃的な行動だが」
戸口「ブッチャーと俺は何の関係もない。ヤツに先を越されたのは頭にきたな。言っとくけど、まだ正式に参加できると決まった訳じゃないんだ。あくまでも俺の意思だ。いい結果が出るようにヨーロッパでひと暴れしてくる。俺はあくまでも、どこの団体にもとらわれず、一匹狼として暴れたいんだ。俺の力を買ってくれるなら、どこへでも行くぜ!」
5月8日、川崎市体育館でのアブドーラ・ザ・ブッチャー新日本プロレス参戦表明に次いで、日本プロレス界に激震が起こりました。
キム・ドクとして大木との韓国師弟コンビで馬場&鶴田組からインターナショナル・タッグ王座を2度に亘り獲得。鶴田のUNヘビー級王座に2度挑戦し2度とも60分時間切れ引き分けの死闘を展開。
79年7月に師匠大木と訣別し全日本プロレスに入団(後年、戸口本人が明かしたところによるとキム・ドクとして外国人ヒールサイドとして闘っていた時期に既に全日本プロレスとは所属契約を交わしていたとのこと)、戸口正徳として馬場、鶴田とタッグを結成、8月からはリングネームをタイガー戸口に改め、全日本プロレス「第3の男」のポジションに収まりました。
藤波辰巳、長州力が台頭してくる前の新日本プロレスでのストロング小林と同様、「第3の男」というのはどうしても損な役回りとなり、やはり馬場、鶴田の引き立て役、トップ外国人相手のジョバーにならなくてはならないことが多く、全日本プロレス正規軍となってからの戸口は鳴かず飛ばずでした。
全日本プロレス離脱直前のシリーズとなった「第9回チャンピオン・カーニバル」では6位でしたがこれはアブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディ、ジャック・ブリスコの3選手が同点の18点で並んだ為の6位で、得点は17点、2位の鶴田とは僅か2点差。悪くありません。
負けは馬場、ブッチャー、ブロディ、ブリスコ、鶴田と時間切れ引き分けで13戦8勝4敗1時間切れ引き分け、失点9の17点ですが、フォール負けはブッチャーにだけで、後はリングアウト負け。
おそらく、新日本プロレス参戦を決めていた戸口が、自分の商品価値が下がらないようにフォール負けのマッチメイクを拒絶したのではないでしょうか?ザ・デストロイヤーも78年の第6回大会はリングアウト負けが多く、翌年の帰国を見据えての主張だった可能性が強いです。
それにしても戸口から「闘ってみたい相手」にS小林の名前がなかったのは最初から眼中になしか…。
ブッチャー、戸口を引き抜かれた馬場がどのように報復に出るかにファンの関心は高まっていきました。
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