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2024年06月05日18:49

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ストロング小林さん追悼最終章(708)

ストロング小林にとっては事実上現役最後の年となる81年編に入ります。

新日本プロレスは猪木、坂口征二、藤波辰巳、キラー・カーン、谷津嘉章が80年末の12月29日(現地時間)ニューヨークMSG定期戦に参戦した為、81年の「新春黄金シリーズ」は他団体よりも遅く1月9日、古河市立体育館で開幕。

年末のMSG決戦は1月1日、元日の午後7時30分より90分枠で「新春プロレススペシャル」として放送され、翌日の1月2日金曜日は「ワールドプロレスリング」は休みでした。

ケン・パテラ、アファ・アノアイ&シカ・アノアイのザ・サモアンズ1&2号、ジ・エンフォーサー、バッドニュース・アレン、トム・プリチャードの外国人レスラーがシリーズフル参戦。

終盤戦特別参加がタイガー・ジェット・シン、ボビー・ダンカン。

エース格のパテラは前80年9月30日、日本武道館での「ファン感謝スーパーファイト」以来約4か月ぶり2度目の新日本プロレス参戦で通算4度目の来日。

前回はWWFインターコンチネンタル、NWAミズーリ州ヘビー級の現役二冠王者として新日本プロレス初参戦で日本武道館という大舞台で猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。持ち前のパワーで猪木を圧倒するも14分53秒、卍固めの前にギブアップ負けしました。

今回は無冠となり、長期のシリーズ参戦が可能になりました。猪木へリベンジを果たすべく新日マット再上陸を果たします。

新日本プロレス初参戦となるザ・サモアンズ1&2号。共に東サモア諸島の出身、兄のアファは1942年11月21日生まれの当時38歳、弟のシカは3歳年下で1945年4月5日生まれの当時35歳。風貌がそっくりなので双子に間違えられますが双子ではありません。

今日まで40年以上続いているプロレス界の一大勢力、サモアンファミリーの始祖。  

少年時代に一家でカリフォルニア州サンフランシスコに移住し、兄のアファはアメリカ海兵隊除隊後の71年にプロレスラーとしてデビュー。後に弟のシカもデビューして、スチュ・ハートの主宰するカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにてザ・サモアンズとしてのキャリアをスタートさせました。

73年にはカルガリーでシャチ横内&ヤス・フジイ組の日本人フリーコンビとインターナショナル・タッグ王座を争った。同じカナダバンクーバーでは同年11月5日、ジン・キニスキー&ザ・ブルート組(バグジー・マグロー)からNWAカナディアン・タッグ王座を奪取しています。

75年にはジ・アイランダーズのチーム名でザ・シーク主宰のデトロイト地区、NWAビッグタイム・レスリングに参戦、8月15日、ハンク・ジェームス&マイティ・イゴール組、10月30日にHジェームス&フレッド・カリーを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座を2度に亘り獲得。76年からはテネシー、アラバマといった南部地区で活躍、アラバマでは国際プロレスでIWA世界タッグ王者チームになったリップ・タイラー&エディ・サリバン組を破りガルフコースト地区タッグ王座を獲得。

その活躍ぶりが大剛鉄之助の目に止まり、77年6月、チーム名をサモアンズに戻して国際プロレスの「ビッグ・サマー・シリーズ」に初来日。花柄の民族衣装モチーフとしたカラフルなショートタイツに不気味な風貌で話題を集めました。当たり外れの差が激しい大剛ルート外国人レスラーの中でサモアンズは間違いなく「大当たり」でした。

特にサモアン2号(シカ)が初公開した相手を担ぎ上げてから垂直に倒れ込むブロックバスター(バックフリップ)はサモアン・スープレックスと呼ばれ強烈なインパクトを与えました。この技でフォール負けしたアニマル浜口は、得意技であるエアプレーン・スピン(飛行機投げ)からのブロックバスターを体得し自分のモノとしました。

同シリーズのエース格外国人は結果的に最後の国際プロレス参戦となったキラー・トーア・カマタで終盤戦にはジプシー・ジョーが特別参加、これまでのシリーズ単独エース外国人が2人揃い、グレート草津&浜口組が保持していたIWA世界タッグ王座には8月4日、日立市池の川中央体育館でカマタ&ジョー組が挑戦。61分1本勝負で草津がカマタから足4の字固めでギブアップを奪い防衛。

サモアンズは同王座挑戦が期待されながら挑戦の機会はありませんでした。勿体無い話で、次期「スーパー・ファイト・シリーズ」で国際プロレスに初参戦したアレックス・スミルノフもIWA世界ヘビー級王座に挑戦せず、マスクド・グラップラーとして来日し、開幕戦でマスクを脱いだ古豪カウボーイ・ボブ・エリスのみ挑戦しています。このあたりは国際プロレスのマッチメイクの稚拙なところかと思います。

再来日となった翌78年1月の「新春パイオニア・シリーズ」では、1月5日に大阪府立体育会館に草津&浜口からIWA世界タッグ王座を獲得。1月20日、大田区体育館にて草津&浜口組にリターンマッチで奪回されました。 

しかし、南国育ちのサモアンズには日本の冬は寒すぎたか、黒のニータイツを着用して凄みが薄れました。特に国際プロレスの会場は観客が少なく、二重の意味で寒かったのでしょう。

79年3月の「スーパー・ファイト・シリーズ」に3度目の国際プロレス来日を果たします。3月6日、岐阜市民センターと3月24日、茨城県境町民体育館で新日本プロレスの星野勘太郎&山本小鉄組のヤマハ・ブラザーズから王座を奪回してIWA世界タッグ新王者チームとなったマイティ井上&浜口組に2回挑戦。サモアン2号はシリーズ最終戦の3月29日足立区・東京マリンにてラッシャー木村と金網デスマッチで対戦し敗れました。
 
同年10月よりWWF入りし、キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに迎え、翌80年3月24日、ニューヨークMSG定期戦でサモアン2号が、4月21日には同所でサモアン1号がボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦、いずれも敗退しましたが、風貌が酷似したタッグ屋の二人が2か月連続でピンでMSGのメインに出場したのはプロモーターのビンス・マクマホン・シニアに買われていればこそです。

80年4月12日にペンシルバニア州フィラデルフィアでイワン・プトスキー&ティト・サンタナ組を破り、WWFタッグ王座を獲得。

猪木、藤波辰巳が出場した8月9日、ニューヨークセンチュリー・シェア・スタジアムで開催されたビッグマッチ「ショーダウン・アット・シェア」にてボブ・バックランド&ペドロ・モラレス組というドリームタッグコンビの挑戦を受けました。

試合は60分3本勝負、1本目は11分42秒、モラレスが2号(シカ)を回転エビ固め、2本目は4分15秒、バックランドが1号(アファ)を片エビ固めで破り2−0のストレート勝ちでバックランド&モラレス組が勝ち、ベルトが移動しましたが、「一夜限定」のチャンピオンチームだったようで、バックランドはすぐにタイトルを返上。

一部では「WWFのシングル王者であるバックランドはルールによりタッグ王者との兼業は出来ない為返上」と書いた文献もありますが、これは後付けでしょう。その通りですとそもそも挑戦すら出来ない。

1月後の9月9日にペンシルバニア州アレンタウン行われた王者チーム決定戦でトニー・ガレア&レネ・グレイ組を降してすぐさま王座に返り咲き、11月8日にフィラデルフィアでガレア&リック・マーテル組に敗れるまでベルトを保持していました。

今回は坂口征二&長州力組の北米タッグ王座に的を絞っての来日、坂口&長州組は前79年8月31日、宮崎・南九州学院短大体育館でのジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ組のハリウッド・ブロンドス戦以来のタッグ専門屋との防衛戦になります。(この項続く)
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