第314戦、11月8日発売号●【予想】アラビアの怪人ザ・シーク、新日本プロレス登場第1戦vs坂口征二(74年新日本プロレス後楽園ホール)【正解】ヤングライオンに通過儀礼として課せられたゴッチ杯(75年新日本プロレス)
【参考】2017年11月8日発売号は新日本の“女房役”坂口がWWFメジャーベルト獲得!WWF北米ヘビー級選手権試合、パット・パターソンvs坂口(79年新日本プロレス小樽市総合体育館)
2017年11月8日発売号、第10戦の予想●世界最高峰の権威とは?後楽園ホールで初のNWA世界戦開催、NWA世界ヘビー級選手権試合、ハーリー・レイスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー(79年全日本プロレス後楽園ホール)※対戦成績は10戦3勝7敗、勝率300。
【予想解説】ヒールレスラーがテレビ放送席を襲撃してアナウンサー、解説者に危害を加える、というのも昭和プロレスの定番でした。
74年11月8日、後楽園ホール大会、「アラビアの怪人」ザ・シークが新日本プロレス初参戦、テレビ生中継で事件は起きました。
シークはセミファイナルで日本プロレス時代にUN王座を賭けて死闘を展開し、さらに遡ればデトロイトでの海外修行時代からの因縁を持つ坂口とのシングルマッチ45分1本勝負。
後からスポットライトに照らされてゆっくりと口にナイフを加えて入場して来たシーク。放送席に近づいて来たと思いきや、視線は解説の東京スポーツ新聞社、桜井康雄氏へ向けられます。
しかし、本番中、逃げられる訳もありません。シークは桜井氏の胸ぐらを掴むと締めていたネクタイを持っていたナイフでいきなり切り刻んでしまいました。
もうこれだけで後楽園ホールは興奮のルツボと化しました。試合は4分49秒、両者リングアウトとなりましたがシークは「素人にも手を出す狂人」として館内を恐怖のどん底に陥れました。
ローカルテリトリー時代のアメリカのプロレス中継番組ではプロモーター側が番組を制作、アナウンサーやコメンテーターはプロモーターに雇われており、言わば「こちら側の人間」です。
テレビインタビューをやっている内にヒールレスラーがエキサイトしてアナウンサーやコメンテーターに手を出すギミックは特段珍しくはありません。
いわゆる「民放」は米国3大ネットワークと呼ばれるABC、CBS、NBCではマイナーであるプロレスが放送されることはなく、全米ローカル局の枠をプロモーターが買っていたのが普通で、番組は専らビッグマッチの宣伝に使われ、(ビッグマッチをテレビ放送してしまうと会場に客が来なくなる、という発想)テレビマッチ、と言われる試合はプロモーターが売り出したい選手vsジョバー、というのが圧倒的多数を占めていました。
ですから、シークのようなプロモーター兼業トップレスラーが故に日本に長く滞在していない(バーン・ガニア、フリッツ・フォン・エリック、インディアナポリス版WWA設立後のディック・ザ・ブルーザー等も同様)人達が日本の民放とプロレス中継の仕組みを十分に理解していたとは思えない訳です。
桜井氏は後付けで考えてその辺り(シークが襲って来ること)のことはわかっていたと思いますが、加減していてもプロレスラーの力というのは物凄く、当時小学校5年生だった私はテレビで見ていてやはり恐怖を覚えました。
この後シークは11月12日と13日の両日、沖縄・那覇市奥武山(おうのやま)体育館で待望の初対決となる猪木とのシングル戦が組まれました。
12日のテレビ収録では12分58秒、シークの反則に激怒した猪木が報復の反則負け。結果に納得いかない猪木は決着戦を申し入れ、13日(ノーテレビ)ではランバージャックデスマッチで対戦。
猪木の攻撃にシークがセコンドの包囲網をくぐってリング下に逃亡、6分23秒、試合放棄で猪木の勝利も不完全燃焼に終わりました。
シークは14日の後楽園ホールでも坂口と対戦して反則負けになっていますが、シークがホームであるデトロイトを不在にしている時を狙って、キラー・ブルックス、ルイス・マルチネスらシークの子飼いだった選手達が造反して新プロモーションを旗揚げした、という情報がシークの耳に入って来ました。
特にブルックスは10月18日から11月7日迄、従兄弟のディック・マードック、ブラックジャック・マリガンと共に全日本プロレスに来日しており、シークとは完全にスレ違い。事前に準備万端の上カムフラージュ的に日本の他団体に行っていた可能性大で、シークも完全に裏をかかれました。
これを聞いたシークは2週間のブッキングで呼ばれていたところ1週間でキャンセルし、途中帰国。
猪木と新間は激怒し事態は国際裁判に迄発展、シークは新日本プロレスからは2度と呼ばれなくなりました。馬場ならまた違う対応をして、ペナルティを与えてから別の機会に呼ぶなどしたかと思いますが猪木、新間コンビは優しくはなく、後の76年のモハメド・アリとの一戦でイスラム教繋がりでシークがアリ側のプロレスのトレーナーに廻る、という話を拒絶。
プロレス側のコーディネーターだったビンス・マクマホン・シニアに一任してフレッド・ブラッシーをアリ側のプロレストレーナーに付けました。
最近、シークがアリvs猪木戦のクローズド・サーキット(リアルタイムで衛星中継により有料でスクリーンによる生中継を見られる、今で言うパブリック・ビューイング)の権利を全米のプロモーターに先駆けて購入した、という話を聞き、シークも新日本プロレスとのビジネス再開を目論んでいた節もありましたが、新日本プロレス側からは反応なし。
3年以上新日本プロレスから声がかからなかったシークは77年12月、世界オープン・タッグ選手権で全日本プロレスに復帰。
80年5月2日、後楽園ホールでのアブドーラ・ザ・ブッチャー戦でも今度は日本テレビの放送席を襲撃、実況の倉持隆夫アナウンサーを襲撃し大流血させています。
反乱を起こしたブルックスのプロモーションもシークの防戦に遭って敢えなくすぐ崩壊、ブルックスは80年6月28日、日本から馬場&鶴田組を呼んで開催したデトロイト版世界タッグワンナイトトーナメントではシークと組んで出場、和解しています。
【正解解説】本稿は75年11月8日に起きた出来事、特定の試合やトピックスを採り上げたものではなく、この年の「闘魂シリーズ第2弾」に開催された「第2回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦」全般について述べられています。
前74年に行われた第1回大会では、12月8日、刈谷市体育館で優勝決定戦が行われ、藤波辰巳が小沢正志(キラー・カーン)を破って優勝、75年6月に西ドイツへ武者修行に出発、フロリダのゴッチ道場、アメリカのノースカロライナ、メキシコへと転戦、78年1月23日、ニューヨークMSGにてカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)で破り、WWWFジュニア・ヘビー級王者となって大出世を果たします。
第2回大会は前年度準優勝の小沢、木村たかし(聖裔、健吾、健悟)、藤原喜明、荒川誠(真、ドン)、栗栖正伸、大城大五郎、小林邦昭の7選手がエントリー。勝ち○1点、△あらゆる引き分け0.5点、●負け0点で全選手総当たりで争われました。
引用されているのは11月7日付(6日発行)の「東京スポーツ」で何と1面でゴッチ杯の展望を特集しています。紙面の予想では本命が木村、対抗が小沢、ダークホースが藤原、大穴が荒川、栗栖となっていますが結果は予想通りとはいかず。
小沢は藤原、荒川に負けて3.5点で脱落、4.5点同士の藤原と木村が同店首位となり、12月7日、刈谷市体育館で優勝決定戦が行われました。特別レフェリーは前年に次いで猪木。
試合は14分5秒、藤原がドリルアホール・パイルドライバーからの体固めで勝利し優勝しています。優勝した藤原は翌76年8月に小沢と共に西ドイツへ短期の海外修行に出ております。
優勝した藤原はその後長い中堅レスラー生活を経て84年2月3日、札幌中島体育センターで藤波戦入場時の長州力を襲撃しテロリストとして脚光を浴び、UWFに移籍しメインイベンターへ。
木村もアメリカ、メキシコ遠征を経て帰国後はNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座に就いた他、UWF、ジャパンプロレス大量離脱時に新日本プロレスに残留、藤波と共にWWFインターナショナル・タッグ、IWGPタッグを獲得、90年代には平成維震軍のナンバー2として活躍。
小沢は言うまでもなくキラー・カーンとして全米のトップヒールとなり、荒川も「ひょうきんプロレス」として独自のスタイルを確立。ザ・コブラ、越中詩郎のIWGPジュニア・ヘビー級に挑戦。
栗栖はジャパンプロレスから全日本プロレスへ移籍後、1度引退しますが、89年にFMWで復帰、「イス大王」としてメインイベンターに。翌90年には古巣新日本プロレスにフリー参戦しています。
小林邦は「虎ハンター」として初代タイガーマスクのライバルとして大活躍、テレビ視聴率20%超えを何度も果たしたスター選手になりました。
78年2月に新日本プロレスを退団した大城以外は業界でそれなりのポジションを築いたレスラーばかりでありつくづく新日本プロレスは「人材の宝庫」だと思う訳であります。
※対戦成績は314戦55勝259敗、勝率175。
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