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2024年02月18日10:34

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週プロ流智美あの日あの時予想2023年総括(41)

第310戦、10月11日発売号●【予想】猪木、大木を壮絶喧嘩マッチの末撃破!NWF世界ヘビー級選手権試合、猪木vs大木金太郎(74年10月10日新日本プロレス蔵前国技館)【正解】日本プロレスの“圧力”に屈せず猪木支援を実行した漢気、東京プロレス旗揚げ戦猪木vsジョニー・バレンタイン(66年10月12日蔵前国技館)

【参考】2017年10月11日発売号は長州軍団迎撃を前に、全日本の大阪大会が満員に!AWA世界ヘビー級選手権試合、リック・マーテルvs鶴田(84年全日本プロレス大阪府立体育会館)

2017年10月11日発売号、第6戦の予想●エース木村に「土曜午後8時」の重圧、IWA世界ヘビー級選手権試合、ラッシャー木村vsロン・バス(80年国際プロレス越谷市体育館)※対戦成績は6戦1勝5敗、勝率167。

今回の予想は2012年10月10日発売号、正解は2016年10月12日発売号のいずれも既出ネタになります。猪木史上、どちらも重要な試合だと言っていいでしょう。

【予想解説】予想は本連載(35)の続編になりますが、74年8月30日、新日本プロレス後楽園ホール「闘魂シリーズ」開幕戦に突如として姿を現した大木は猪木へ挑戦を直訴。この時は、猪木にかわされてしまい不発に終わりましたが、9月10日、愛知県体育館大会に再び登場した大木は、リング上からマイクを使って猪木に対戦要求。

シリーズ最終戦の10月10日、蔵前国技館で猪木vs大木のNWF世界ヘビー級選手権試合が決定、当初、この日は3月21日、オハイオ州クリーブランドで不透明決着となったアーニー・ラッドとの再戦が行われる予定でしたが、ラッド戦は次期シリーズに持ち越しとなりました。

猪木戦が決まった大木は、「韓国のハワイ」と言われる済州島で「猪木破壊」を旗印に強化合宿を張りました。

この一戦の調印式が9月30日、京王プラザホテルで行われ、試合は時間無制限1本勝負、両者リングアウトによる決着はなし。特別レフェリーは豊登が務めることになりました。

記者団の質問の時に普段プロレスを扱わないおそらくどこかの朝刊紙の記者が大木に対し「大木さんはインターナショナル・チャンピオンだが、今回何故インター王座は賭けないのか?もし今回負けたら、どうするつもりですか?」という質問を浴びせました。

東京スポーツ、月刊プロレス、ゴングと言った業界とグルの内側のマスコミは先ずそんな質問はしませんが、これに対し豊登が大木に代わって激怒し「そういう質問はレスラーに対して失礼だよ。レスラーは誰もがいつだって勝とうと思ってリングに上がっているんだよ。『負けたらどうする』なんて考える訳ないでしょ」と強い口調で記者をたしなめたとのことです。

猪木もこれを受けて「大木さんも調子がいいみたいだから覚悟を決めて挑戦して来て欲しい。両者リングアウトはないとのことですが20カウントは必要ないでしょう」とコメントしています。

決戦当日、蔵前国技館は3月19日のストロング小林戦の時と同数の16,500人(超満員札止め)の大観衆が集まりました。主審が豊登、サブレフェリーがミスター高橋。

試合前のボディチェックの時、猪木は、広島の原爆のキノコ雲をあしらったガウン姿の大木に対し痛烈な右ストレートを浴びせ、不意を突かれた大木がダウンする場面が見られ、早くも殺伐とした決闘モードに入りました。

大木のヘッドバットの連発を歯を食いしばって耐え、額から鮮血を流しながら頭を指差して「打ってこい!」とアピールする猪木は最高にカッコよく、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」のオープニングにも長く使用されたお馴染みのシーンであります。

大木は一本足原爆頭突き!堪えていた猪木があまりの威力に膝を着いてダウン、大木はもう一発、一本足原爆頭突き、しかし、猪木は膝を着いた状態から振り降ろしてくる大木の右顎に強烈なエルボー一撃、大木はダウン。

ダウンした大木を猪木はボディスラムで叩きつけてからのバックドロップ、13分13秒、体固めで猪木の
フォール勝ち。6度目のタイトル防衛を果たしました。

闘い終わった両者はガッチリと抱擁、猪木の目には涙が…。そこには遺恨はもうなく、力道山道場で苦楽を共にしたかつての兄弟子と弟弟子に戻っていました。

この試合は翌75年12月11日、蔵前国技館で行われたビル・ロビンソンとの試合と並び、猪木のベストバウトに挙げるファンは非常に多いですね。

【正解解説】63年12月15日、社長でありワンマンエースだった力道山が暴漢に刺された傷が元で腸閉塞を起こし39歳で急死。力道山死後の日本プロレスは、社長に就任した豊登を中心に、芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明の4人を中心としたいわゆる「トロイカ体制」を組む形で難局の中で再スタート、豊登がエースであったものの、その豊登を凌ぐ存在として209cm、145kg、2度目のアメリカ武者修行から帰国した馬場がエースの座に肉薄していました。

65年、日本プロレスは馬場をエースの座に据え、力道山が生前保持していたインターナショナル王座を復活(ベルトは違うデザインのモノが新たに作られた)させ、馬場はデストロイヤー、アルバート・トーレス、ザ・ブッチャー(スーパー・デストロイヤーことドン・ジャーデン、アブドーラとは別人)ジ・アサシンズA(トーマス・リネストウ)ら世界の強豪を破って王座決定戦への出場資格を得て、日本代表として65年11月24日、大阪府立体育会館で力道山が生前「呼びたくても売れっ子でスケジュールの調整がつかなかった」大物ヒール、「生傷男」ディック・ザ・ブルーザーと王座決定戦を行い、2本共に反則勝ちながら2−0のストレート勝ちで王座を獲得。

王座決定戦ではブルーザーに比べてひ弱な印象を受けた馬場でしたが、3日後の11月27日、蔵前国技館でのリターンマッチでは1−1から両者リングアウトの引き分けながらブルーザーから1フォールを奪い初防衛に成功、馬場が力道山の後継者として日本プロレスの真のエースの座に君臨しています。

そんな中、日本プロレスは65年11月24日に行われた役員会で、豊登の社長解任を決議して翌66年1月5日、社長辞任が正式に発表されました。

この時点では、表向きは持病だった尿管結石の悪化で辞任と発表されましたが、3月21日に正式な解任理由が後任の社長に就任していた芳の里から発表され、解任理由は「豊登の公金横領」で、65年11月から欠場していた理由は、「会社の資金を横領し、競馬、競輪などのギャンブルに流用していたことが発覚したため」で、実際には謹慎処分にしていたと公表しています。その負債額は当時の金額で2,000万円とも4,000万円ともと言われ、豊登のギャンブル依存症ぶりが浮き彫りにされています。

豊登の社長解任に伴い、馬場が28歳という若さで取締役に就任、馬場に経営責任の一役を担わせ、フリーになってアメリカに行かれない為の工作でもありました。

日本プロレスをクビにされた豊登は、力道山時代から縁のあった新宿の「寛通寺」住職の新間信雄と息子で日本橋の日本プロレス道場に通っていた新間寿父子に接触して新団体を旗揚げする意向を表明。豊登には日プロから数百万円の退職金を受け取っていましたが、ギャンブルに全て使ってしまって資金がなく、新間親子に泣きついて旗揚げ資金を工面することになりました。

豊登の新団体旗揚げ表明を受けて、日本プロレスから豊登の子飼いだったか田中忠治を初め、木村政雄、齋藤昌典、北沢幹之が退団して新団体に参加することとなり、2月に静岡県伊東市で合宿を開始し。豊登が参加メンバーとしてあてこんでいた大木金太郎、星野勘太郎、高千穂明久らは日本プロレスに留まり、また在米フリーのヒロ・マツダにも入団を断られ手薄な選手層でのスタートを余儀なくされました。

そこで豊登は、新団体の目玉として弟分的な存在であった猪木の引き抜きを画策することとなった。当時アメリカに遠征していた猪木は、日本プロレスの「第8回ワールド・リーグ戦」へ凱旋参加するためアメリカでの武者修行を打ち上げ、3月10日に猪木に連れ添っていたレフェリーの沖識名と共にロサンゼルスから馬場や吉村と合流しての合同トレーニングへ向けてハワイへ移動することとなりました。

猪木は、当時ライバルであった馬場の遠征時の日本プロレスの扱いと比べ、遠征中に日プロからは何も連絡がなく、日本では常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と自分への待遇に疑問を抱くようになっていました。猪木のハワイ到着時のマスコミの取材も少なく、しかも到着日に宿泊するホテルが予約されていなかったこもあって、日プロの対応にますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となりました。

吉村、馬場と合流した猪木は「吉村さん達の態度がよそよそしく感じた」と自書「燃えよ闘魂」で触れていますが、それもそのはずで吉村は日本を発つ前に「豊登が猪木を新団体に誘い入れる為にハワイに来る」という情報を入手しており、また猪木は日本プロレスの外国人ブッカーをしていたミスター・モト(チャーリー岩本)から「お前のギャラは外国人と同じ週給ドル建てで払うから」と言われ、「日本に帰るのに何でだろう?」と日本プロレスに対する不信感は増幅していきました。

吉村は猪木の豊登新団体への参加を阻止せんとし3月19日夕方のホノルル国際空港発の航空機で馬場と吉村、沖と一緒に帰国することを一度は承諾しましたが、帰国当日に豊登の宿舎だったパコダ・ホテルに呼ばれ、「寛至、お前はこのまま日本プロレスに帰ったら一生馬場のうえには行けない、俺と一緒に新しい団体を作ろう、お前がエースだ。社長にしてやる」と説得され「飛行機嫌いの豊さんがわざわざハワイまで来てくれた」と翻意。搭乗が予定されていた飛行機には乗らず、猪木は3月21日に日本プロレスに国際電話を入れて退団する事を表明、これがいわゆる「太平洋上猪木略奪事件」です。

同年4月23日に猪木の豊登と共に帰国、新団体の名称は「東京から世界へ」という意味を込めて「東京プロレス」と名付けられ、新宿区柏木町(現在の百人町)に事務所が開かれました。

猪木は外国人ブッキングルートを確保する為渡米、猪木の素質を買っていた「ミネソタの砂嵐」サニー・マイヤースが協力、猪木を筆頭に、には選手をある程度確保できたことで、66年8月に旗揚げ戦を蔵前国技館で開催することを発表した。しかし、この情報を聞きつけた日プロは、豊登による新団体を短期間で崩壊させるべく妨害工作を開始し、この時は延期されました。

10月3日、千代田区の神田美土代町のYMCAジムで公開練習が行われ、猪木がアントニオ・ドライバー(フロントネック・チャンスリードロップ)を初披露しています。

10月12日、蔵前国技館で旗揚げ「ビッグマッチ・シリーズ」開幕戦が行われ、9,000人の観衆を動員、外国人レスラーはバレンタイン、ジョニー・パワーズ、マイヤース、ザ・ヘラキュリー(ボビー・グラハム)、ラッキー・シモノビッチが参加。

開幕戦のメインイベントは猪木vsバレンタインのシングルマッチ時間無制限1本勝負。31分56秒、猪木が場外でのアントニオ・ドライバーでリングアウト勝ち。アメリカ修行の成果をアピールする形となりました。

※対戦成績は310戦55勝255敗、勝率177。
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