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2024年02月06日17:36

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週プロ流智美あの日あの時予想2023年総括(29)

第298戦、7月19日発売号●【予想】爆弾小僧ダイナマイト・キッド初来日第1戦、vs寺西勇(79年国際プロレス北海道・木古内町公民館)【正解】テレビのゴールデン枠を独占していたプロレスラーの存在感、日本、国際の2団体並立の人気絶頂時代(69年7月17日)

【参考】2017年7月19日発売号は週プロ創刊号の巻頭カラーを飾った異色対決!テリー・ファンクvsタイガー・ジェット・シン(83年全日本プロレス大阪府立体育会館)

【予想解説】ダイナマイト・キッド、本名トーマス・ビリントン、(1958年12月5日〜2018年12月5日、60歳没) はイギリス、ランカシャー州出身。ハルク・ホーガンと並び80年代のプロレスのアイコン、キッドに憧れプロレス入りしたプロレスラーは洋の東西を問わず多数存在します。

元プロレスラーのテッド・ベトレーに師事、彼の紹介で「蛇の穴」ビリー・ライレー・ジムにトレーニング行きランカシャー・スタイルのレスリングを学び75年に16歳でデビューしています。

巨漢のベビーフェイスで団体のエースレスラーであったビッグ・ダディらクラブトリー3兄弟の主宰するジョイント・プロモーションで活躍、Bダディの兄となるマックス・クラブトリーは後にIWGP発足時の実行委員に名を連ねていたプロモーターで新日本プロレスとも協力関係にありました。

77年は79年9月に国際プロレスに来日したローラーボール・マーク・ロコ(後の初代ブラック・タイガー)と抗争、78年1月25日にはジム・ブリークスを破りブリティッシュ・ウェルター級王座を獲得。これがキッドのプロレス人生における初戴冠。

同年4月にカナダのカルガリーへ渡り、スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリングと契約、7月に英連邦ミドル・ヘビー級王座の初代王者に認定されています。以後、ブレット・ハートと同王座を争いNWA世界ジュニアヘビー級王者のネルソン・ロイヤルとも対戦しました。

キッドはスチュの地下道場「ダンジョン」でヨーロッパスタイルとはまた違うシュートを叩き込まれ、カルガリーのハードヒットなレスリングを修得して「髪剃ファイター」と言われたファイトスタイルを確立していきます。

79年7月、英連邦ジュニア・ヘビー級王者として国際プロレスの「ビッグ・サマー・シリーズ」に初来日。7月19日の北海道・木古内町公民館での来日第1戦では、ベテラン寺西勇を相手に30分時間切れ引き分け。

翌7月20日には大館市民体育館で阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニア・ヘビー級王座に挑戦して13分7秒、両者カウントアウトの引き分け。さらに7月21日には村上市民会館で原のWWU世界ジュニア・ヘビー級王座と自ら保持する英連邦ジュニア・ヘビー級王座を賭けた国際プロレス初のヨーロッパルールを採用したラウンド制のダブル・タイトルマッチを行い、4分7ラウンドの時間切れで引き分けています。 

キッドと原はシリーズ最終戦の7月25日、三島市民体育館でノンタイトル45分3本勝負で対戦し2−1で原が勝利。キッドはファン、関係者からも高い評価を得て、吉原功代表も早期の再招聘を予定していました。

しかし、同時期に国際プロレスと提携していた新日本プロレスもスタンピード・レスリングに目をつけて急接近し、初来日直後の8月17日(日本時間18日)猪木、坂口征二、藤波辰巳のカルガリー遠征を実施。

藤波のWWFジュニア・ヘビー級王座とキッドの英連邦ジュニア・ヘビー級王座を賭けたダブル・タイトルマッチは20分33秒、両者リングアウトの引き分けとなりましたが、非常に好試合となりました。

カルガリー大会の模様はテレビ朝日の「水曜スペシャル」の90分枠特番において、10月17日に録画中継されましたが大きな反響を呼んでいます。

遠征に同行していた新間寿営業本部長はプロモーターのスチュに、国際プロレスのブッキング料を上回る条件を呈示、国際プロレスとの取引をやめて、新日本プロレスと提携するように打診、この時点でスチュは新日本プロレスに気持ちが傾き、新間の条件を応諾していました。

新日本プロレスでは80年1月4日、後楽園ホールで開幕する「新春黄金シリーズ」にキッドの初参戦を発表。

国際プロレスも同じ1月4日、新潟市体育館で開幕する「新春パイオニア・シリーズ」にキッドの再来日を発表しており、1月7日、大阪府立体育会館では原とのWWU世界ジュニア・ヘビー級選手権試合を行うとリリースしていました。

新日本プロレスも、国際プロレスと提携していながら、ロイヤルvs原のNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権試合(79年10月5日、後楽園ホール)にクレームをつけたり、大剛鉄之助がブッカーをしていたカルガリーのマーケットを横取りしたりと結構エグいことをやっています。

新日本プロレスと国際プロレスからすればダブルブッキングであり、結果的には資金力の差で国際プロレスが勝てる訳もなく、キッドは新日本プロレスに参戦しますが、発表当時は「キッドは一体どちらに来るんだ」と物議を醸しました。

新日本プロレスではジュニア・ヘビー級の最前線で活躍、藤波辰巳のWWFジュニア・ヘビー級王座に2度挑戦、81年4月23日、蔵前国技館ではタイガーマスクのデビュー戦の相手を務めています。

タイガーマスク引退後の84年2月7日、蔵前国技館では空位となったWWFジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦優勝決定戦で従兄弟のデイビーボーイ・スミス、ザ・コブラを巴戦で連破し、王座を獲得。

しかし、同年11月スミスと共に全日本プロレスへ電撃移籍、「世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦。スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ組、鶴田&天龍組、ハーリー・レイス&ニック・ボックウィンクル組らヘビー級の強豪達と互角の試合をしています。

翌年の最強タッグにも連続出場しましたが、86年にWWFと契約、89年1月に3年ぶりに全日本プロレスに復帰しましたが、ステロイドを抜いたのとWWFのリングで背骨を骨折したこともあり動きは悪くなっていました。91年12月6日、全日本プロレスの日本武道館大会を最後に33歳で引退を表明。

その後93年7月には全日本プロレスで、96年10月にはみちのくプロレスで限定復帰しましたが、身体は萎み、試合も精彩を欠きました。晩年はステロイドの後遺症に苦しめられ、2013年には脳卒中を発症、18年12月5日、自身の60歳の誕生日に亡くなりました。

【正解解説】流さんのコラム、あるいは著書を読んだことがある方であれば既知の話題かと思いますが、流さんは「過去にプロレスブームとはいつの時期を指しますか」という質問を受けることが多々ありました。

流さんは決まって「力道山時代は見ていないのでわかりませんが、私がフォローするようになった68年以降は、1位が69年、2位が83年だったと思います」と回答するようにしているとのことです。

69年は67年に日本プロレス入りした元柔道日本一の坂口征二が凱旋帰国、NET(テレビ朝日)が「ワールドプロレス」の放送を開始、日本プロレスは史上初の1団体民放2局放映が始まった年、テレビが日本人の主たる娯楽だった時代、プロレスラーの露出は多くなり、大衆文化として広く浸透していくようになりました。

当時の民放では日本テレビが毎週金曜日午後8時から「三菱ダイヤモンドアワー、日本プロレス中継」、TBSが毎週水曜日午後7時より国際プロレスの「TWWAプロレス中継」、NETが同じく毎週水曜日午後7時から「ワールドプロレスリング」を放送。

さらに東京12チャンネル(テレビ東京)では、68年11月より海外の試合フィルムを買い付けて放送した「プロレスアワー」を毎週月曜日午後8時から放送、さらに同番組が好評であり、69年からは毎週土曜日午後5時から再放送(関東ローカルであり、持ち番組が少なかったこともあるかと)しています。

女子プロレスでは同じく東京12チャンネルが小畑千代、佐倉輝美らの日本女子プロレスを「女子プロレス中継、世界選手権シリーズ」として毎週木曜日午後7時30分より30分枠で放送。

1週間で合計6時間30分もの時間、テレビでプロレス中継をやっていただけあって、やはりブームの頂点だったと言えます。

流さんが2位にあげていた83年はタイガーマスクブー厶、IWGP開催など、さらに情報量の増加によりベースボールマガジン社から発行されていた「月刊プロレス」が週刊化、「週刊プロレス」としてリニューアルされています。83年は新日本プロレスブームだったと言えるでしょう。

本稿では、69年7月17日、国際プロレスの大阪府立体育会館で行われた豊登&ストロング小林組vsオックス・ベーカー&スタン・ザ・ムース(ドクター・デス、ムース・モロウスキー)組のIWA世界タッグ選手権試合の結果が掲載されたスポーツ紙がネタ元として引用されています。(豊登&S小林組が2−0のストレート勝ちで初防衛に成功)

おそらく当初はこちらのIWA世界タッグ選手権試合のコラムを書くつもりでいたけれども1ページ埋めるだけのインパクトに弱く、本稿の内容に変更になったのではないかと思われます。

※対戦成績は298戦52勝246敗、勝率174。
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