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2024年02月01日17:46

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週プロ流智美あの日あの時予想2023年総括(24)

第293戦、6月14日発売号●【予想】猪木とシンの2度目のシングル戦は屈辱の反則決着、猪木vsタイガー・ジェット・シン(73年新日本プロレス大阪府立体育会館)【正解】レスリング界の最強ヘビー級王者がプロ入り表明の波紋、谷津嘉章がプロレス転向を表明(80年6月19日)

【参考】史上初!3団体トップが祭典実現に向けて同席!プロレス夢のオールスター戦開催記者会見(79年港区芝・東京プリンスホテル)

【予想解説】日本で最も著名なヒール外国人レスラーとなったタイガー・ジェット・シン、本名はジャジット・シン・ハンス、1944年4月3日、インド・パンジャブ州出身、兵役を終えた後、インド古来のグレート・ガマ由来のインドレスリングを習得して65年にシンガポールでデビュー、その後カナダに渡りました。

カナダでは馬場のアメリカ修行時代の師匠でもあるフレッド・アトキンスにシュートレスリングを叩き込まれ、オンタリオ州トロントを拠点とするフランク・タニー主宰のNWA傘下団体メープル・リーフ・レスリングにおいて65年9月から本格的活動を開始、翌66年7月31日には師匠のアトキンスとのコンビで、同地区のインターナショナル・タッグ王座をホイッパー・ビリー・ワトソン&ブルドッグ・ブラワー組から獲得。

シンをプロレスラーとして高く評価していない馬場ですが、アトキンスの指導を受けていた弟弟子にあたり、アームドラッグの入り方が「俺と同じ」と著書に書いています。アドリアン・アドニスもアトキンスの指導を受けており、やはり同じ入り方でした。

67年6月11日、ジョニー・バレンタインを破って同地区のUSヘビー級王座を奪取。日本では無名の存在であったが、以降は当時のトロント地区ローカルながらメインイベンターとして活躍。

トロントに遠征してきたNWA世界ヘビー級王者ジン・キニスキーやWWWF世界ヘビー級9月24日と10月15日にはブルーノ・サンマルチノに挑戦。このあたりはプロモーターのタニーが全方位外交姿勢でトロントが優良マーケットだったことを現しています。USヘビー級王座は、エドワード・カーペンティアやドン・レオ・ジョナサンなどの大物を相手に防衛を続け68年5月まで保持、その後同王座は諸般の事情により71年まで空位となっています。

その後ベビーフェイスに転向し、インド移民の多いカナダではヒーローとなりました、71年2月に行われたザ・シークとのシングルマッチでは18,000人を超える大観衆を動員、当時の年収は80,000ドルにも達していたと言います。同71年はオーストラリアのジム・バーネット主宰のテリトリーに遠征してスパイロス・アリオンとも対戦、5月30日にはフジ・シンタロウことミスター・フジと組んでマーク・ルーイン&キング・イヤウケア組から豪州版IWA世界タッグ王座を奪取した。初来日直前の73年はオーストラリアをサーキットしており、日本で一緒になるニュージーランドのスティーブ・リッカードらとツアーを共にします。

シンを新日本プロレスに売り込んだのはシンガポール在住の吉田なる貿易商と言われており、日本に行くならヒールだとシンのヒール時代の宣材写真を新日本プロレス事務所に送り、シンの写真を見た猪木が一目で気に入ったとのこと。

シンの写真は口にナイフをくわえているモノでしたが「これじゃ面白くねぇな、サーベルでもくわえさせろ!」と言ったと言います。

シンの初来日はNETの放送がついて2シリーズ目の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」。開幕戦の5月4日、テレビ生中継の川崎市体育館大会、リングサイド最前列にターバンを巻いたシンが座り、セミファイナルの山本小鉄vsリッカード戦に乱入、小鉄をコブラクローで絞め落としてしまいました。

シンは当初の来日メンバーには入っておらず殴り込みをかけた形で新日本プロレスに登場、センセーショナルな話題を作りました。ビザの書き替えの為に一旦は香港に飛びワーキングビザに変更してからシリーズ参戦。

猪木との初対決は5月25日、岐阜市民センターでのテレビ生中継、メインイベントのシングルマッチ61分3本勝負で対戦、1本目は9分2秒、シンが体固め、2本目は1分53秒、猪木がアバラ折り(コブラツイスト)、決勝の3本目は3分53秒、猪木が暴走し反則負けを取られて2−1でシンの勝利となりまた。

怒りが収まらない猪木はシリーズ最終戦、6月14日、大阪府立体育会館でシンと時間無制限1本勝負で再戦、シンの凶器攻撃の前に猪木は額からおびただしい流血、コブラツイストで反撃もシンの反則攻撃は止まらず21分39秒、猪木屈辱の反則勝ち。猪木は初来日の無名のシンを倒せず帰国させてしまいました。

開幕戦の無法乱入でシンは「呼んでもいないのに勝手に殴り込んできた」としてテレビ生中継で強烈な印象を与え、猪木が制裁の為に立ち上がる、という見事な図式で、猪木とシンの対戦はテレビ放送がついた新日本プロレスが躍進するきっかけとなりました。

このシリーズでの遺恨が11月、シンの再来日時の「伊勢丹前襲撃事件」に繋がります。

【正解解説】今回の正解も前週に続いてアマレスのネタでした。昭和時代のアマレス出身のプロレスラーでトップまでいった人材はマサ齋藤、ジャンボ鶴田、長州力(吉田光雄)の3人がダントツの出世頭であることに異論を挟まれる方は少ないと思いますが、その次に来るのが谷津嘉章。

谷津は1956年7月19日、群馬県邑楽郡明和町出身、足利工業大学レスリング部主将であり、三沢光晴、川田利明の先輩に当たります。日大に進学し、大学1年の時に、猪木と初の「格闘技世界一決定戦」を行う為に来日したオランダの柔道王、ウィリエム・ルスカのスパーリングの相手を務め、ルスカを攻め込んだという逸話を持っています。

同年7月のモントリオール五輪日本代表としてフリースタイル90kg級に出場、8位に終わっていますが、翌77年の内閣総理大臣杯では圧倒的な強さを見せて全勝優勝。

その後、アメリカのオレゴン州立大学にアマレス留学、世界選手権でロサンゼルスに滞在していた79年8月にシンとのNWFヘビー級選手権試合(8月10日オリンピック・オーデトリアム)の為にロス入りしていた猪木と偶然出逢って激励を受けたと言います。

モントリオールの次の80年モスクワ五輪にも日本代表の最有力候補になっていた谷津でしたが、アメリカをはじめとする西側諸国の参加ボイコットで日本も不参加が確定、幻の日本代表となりました。

この時谷津は24歳で、次のロス五輪の時は年齢が28歳となってしまうことからプロレス入りを決意。10月23日に猪木、坂口征二同席の元、新日本プロレス入団が発表されていますが、本稿では谷津の新日本プロレス入りを決意を6月21日付(20日発行)の「東京スポーツ」でスクープされたことに起因して書かれております。

※対戦成績は293戦51勝242敗、勝率174。
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