80年新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」を総括したいと思います。
フル参戦組のエース格と目されたアイアン・シークはIシークに変身してから初の来日となりました。前身はアマレス出身の実力者、さらにバーン・ガニアにプロとしてのセメントファイトを仕込まれたエリートアスリートのコシロ・バジリですが、地味で売れず、イスラム系アラビアンギミックになってからブレイク。
別名グレート・ハッサン・ザ・アラブというリングネームもありましたが、日本ではザ・シークが有名なヒールとして活躍しており、Iシークの方が、通りがいいとなったのでしょう。
3月20日、津山市総合体育館で猪木に卍固めでギブアップ負けした後は、長州力、坂口征二、藤波辰巳に一本負け(フォール、ギブアップ)し、4月3日、蔵前国技館での北米タッグ選手権試合では長州のバックドロップの前にあっさりフォールされており、シリーズを通してのエース格としては物足りなかったです。
本家スーパー・デストロイヤー(ドン・ジャーデン)は長期シリーズには向かないか、中盤から失速、猪木、坂口、藤波、長州に北米タッグタイトル戦本番前に一本負けを喫し、4月3日、蔵前国技館での北米タッグ選手権試合では1本目、坂口の逆エビ固めにギブアップ負けを喫し、勝敗に淡白なところを見せています。
前回の77年4〜5月の全日本プロレス「第5回チャンピオン・カーニバル」でもアブドーラ・ザ・ブッチャーに次ぐ2番手でありながら上位陣には全敗といいところなく終わり、リーグ戦ならではの番狂わせ、波乱を起こすことが出来ず、優勝争いを盛り上げられなかったこともあり、全日本プロレスからは声がかからなくなっていましたが、新日本プロレスでも同じような感じでシリーズを終えることになりました。
アメリカでの実績から見れば超大物であり、75年4月の「第2回ワールド・リーグ戦」に初来日したネイル・グアイ版Sデストロイヤーより格上の存在でしたが、新日本マットにおけるインパクトではグアイの方が上回りました。
ジャーデンはこれが最後の来日となり、その後84年にテキサス州ダラスのWCWAでファイトしていた時に新人だったマーク・キャラウェイ(ジ・アンダーテイカー)をコーチし、トップロープを歩く「オールドスクール」を伝授した存在としてプロレス界に広くその名を残しています。
2シリーズ連続参加のバッドニュース・アレンはこのシリーズから頭髪を剃り上げたスキンヘッドに変身、さらに凄みを増しています。
Iシーク、Sデストロイヤー、終盤戦特別参加のスタン・ハンセンのパートナーとしてメインイベントに度々起用され、バイプレイヤーとしていい仕事をしていました。
坂口のWWF北米ヘビー級王座に連続挑戦。アトミック・ドロップでフォール負けしましたが、前回の2月2日、札幌中島スポーツセンターでの初戦はノーテレビでしたが、今回はテレビ生中継であり、日本全国に名前が浸透するきっかけになりました。
新日本プロレスに留学生として入門し、前座試合に出始めたのが77年12月ですからまだキャリア2年ちょっと。それを考えると将来が楽しみではあります。
アーマンド・ゲレロとアンヘル・ブランコば藤波のドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)を喰らって失神、レフェリーストップ負けで途中帰国となりましたが、2人共アメリカ、メキシコでの実績を考えたら、この扱いは気の毒でした。
終盤戦にハンセンとマイク・グラハムが来るので外国人枠が飽和状態になるので途中で切られたか?
アーマンドは兄のチャボ・ゲレロ、弟のヘクター・ゲレロと比べると数段、落ちますがもう少し活かしようはあったはず。
ブランコも来日前の前79年12月19日、メキシコ・パラシオ・デ・ロス・デポルテスで藤波のWWFジュニア・ヘビー級王座に挑み、1−1から両者ダブル・フォールで引き分けている割には扱いが酷かったです。
軽量級のタッグ戦線にエル・グレコ&エル・セルヒオ組がのロス・エクソティコスがおり、この2人をバラけさせる訳にもいかなかったのでしょうが、グラン浜田を初め、星野勘太郎、小林邦昭、今シリーズ売出しにかかったジョージ高野らともう少し当ててみたら面白かったと思います。
アーマンドとブランコは来日はこれ一度きりに終わり、ブランコは86年4月27日に交通事故で47歳で事故死しています。(この項続く)
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