mixiユーザー(id:21258650)

2023年12月07日06:16

309 view

ストロング小林さん追悼(587)

80年新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」(山本小鉄引退記念シリーズ)は2月29日(この年は閏年)、後楽園ホールで開幕。

アイアン・シーク、スーパー・デストロイヤー(ドン・ジャーデン)、バッドニュース・アレン、アーマンド・ゲレロ、アンヘル・ブランコ、ベビー・フェイス、2月27日、蔵前国技館での「格闘技世界一決定戦」から出場しているメキシコのゲイコンビ、エル・グレコ(長州力のデビュー戦の相手とは別人)&エル・セルヒオ組の「ロス・エクソティコス」の外国人レスラーが参加。

シリーズ終盤戦にはNWFヘビー級王者、スタン・ハンセン、NWAインターナショナル世界ジュニア・ヘビー級王者のマイク・グラハムが特別参加。

日本側はメキシコを主戦場にしているグラン浜田が1年ぶりに凱旋帰国することになりました。

Iシークは本名コシロ・バジリ、1942年3月15日 、イラン・テヘラン出身の当時37歳。

イランではコシティやレスリングの選手として活躍し、レスリングでは68年メキシコ五輪のイラン代表とされていましたが、選手としての五輪出場経験はなく、70年にイランからアメリカ合衆国に亡命後、翌年のAAU選手権に優勝、72年のミュンヘン五輪、76年のモントリオール五輪ではアメリカ代表チームのアシスタント・コーチとして参加。

72年にAWA世界ヘビー級王者兼団体のオーナーであったアマレス界の大先輩であるバーン・ガニアに見出されてプロレス入り。同時期にいわゆる「ガニア・キャンプ」でトレーニングしていたメンバーにはリック・フレアー、ケン・パテラ、グレッグ・ガニアなどがいました。

師範代は主にビル・ロビンソンが務めましたが、デビュー後の数年間はベビーフェイスとして本名のKバジリまたはアリ・バジリの名義でリングに上がっていました。ガニアにそのレスリングの実力を見込まれ、ガニア・キャンプのトレーナーも兼任しています。

74年4月、新日本プロレスの「第1回ワールド・リーグ戦」に初来日。実力者ではありましたが、地味な試合スタイルで目立たず、猪木には「アマチュアみたいな奴」と厳しい評価を受けました。リーグ戦では永源遙、木戸修、柴田勝久に勝ち3勝を挙げましたが予選落ち。

ただし、アルゼンチン・ズマ、ウォルター・ジョンソンの白星配給係の中では一番いい成績でした。

モントリオール五輪の直前となる76年5月には全日本プロレスの「NWAチャンピオン・シリーズ」に2度目の来日を果たしました。ミュンヘン五輪日本代表のジャンボ鶴田とも対戦しましたが、あっさりと敗れています。

同年後半より、スキンヘッドにコールマン髭、ベールを被ったイスラム系アラビアン・ギミックのアイアン・シークと改名ヒールに転向しブレイクします。

セントラルステーツ地区、テキサス、太平洋岸北西部などNWAの主要テリトリーを転戦、77年にはニュージーランドにてリック・マーテルを破り、英連邦ヘビー級王座を獲得、翌78年4月18日にはオレゴン州ポートランドでブル・ラモスとのタッグで、ジェシー・ベンチュラ&ジェリー・オーツ組からNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取。

同年7月24日、カナダのバンクーバーにてテキサス・アウトロー(クレイジー・ボビー・バス)をパートナーに、トーナメントの決勝でドン・レオ・ジョナサン&ジェイク・ロバーツ組を倒してNWAカナディアン・タッグ王座を獲得しました。

前79年2月よりハッサン・ザ・アラブ(ハッサンは「フセイン」の意)のリングネームでWWFに登場。6月4日、ニューヨークMSGでボブ・バックランドが保持していたWWFヘビー級王座に挑戦、30分42秒の激闘の末、バックランドのハイアングル・アトミックドロップの前にフォール負けしましたが、実力者ぶりを如何なく発揮。

同年11月、イランのテヘランでアメリカ大使館人質事件が発生、これによりトップヒールの地位に押し上げることとなりました。12月17日、MSGで日本から遠征してきた猪木のNWFヘビー級王座に挑戦、14分59秒、延髄斬りからの体固めで敗れましたが、鉄柱攻撃と凶器ブーツで猪木の額を割って大流血に追い込みました。

今回は猪木は無冠であり、NWFタイトル挑戦の機会はありませんが、新日本プロレスヘの登場は約6年ぶり。「アマチュアみたいな奴」と酷評されたかつてのバジリではないトップヒール姿を見せてくれることでしょう。藤波辰巳、長州力、ストロング小林とは初対戦。

新日本プロレスでSデストロイヤーといえば、75年4月の「第2回ワールド・リーグ戦」に参加したフランス系カナダ人のネイル・グアイ(タワーリング・インフェルノ、ザ・ハングマン)かと思われましたが、今回は「本家」が新日本プロレス初参戦。77年4〜5月の全日本プロレス「第5回チャンピオン・カーニバル」以来2年10か月ぶりの来日。

ドン・ジャーデン、本名ドナルド・デルバート・ジャーデン、1940年3月24日カナダ・ニューブランズウィック州出身の当時39歳。

カナダ・モンクトンのYMCAジムにてトレーニングを積み、55年に15歳でデビュー。サーカスなどに出場するカーニバル・レスラーだったとも言われています。地元のニューブランズウィックを拠点とするマリタイム地区やトロント地区を主戦場に、60年代はサニー・クーパー、または "ベビーフェイス" ドン・ジャーデンなどのリングネームを用いて素顔で活動。62年にはアメリカ合衆国に渡り、オハイオ地区でカール・ゴッチやウィルバー・スナイダーと対戦し経験を積みました。

力道山時代の63年7月、本名のジャーデンで日本プロレスに初来日。サニー・マイヤースと組んで力道山&豊登組のアジア・タッグ王座に2度挑戦しています。

力道山死後の65年9月にはあご髭を蓄えたヒール、ザ・ブッチャー(アブドーラとは別人、ブッチャーは「屠殺人」の意)のリングネームで再来日。10月22日、富山市体育館にて、力道山の死後空位となっていたインターナショナル・ヘビー級王座争覇戦で馬場と60分3本勝負で対戦しの1−1から時間切れ引き分けとなりました。

67年、フリッツ・フォン・エリックのアドバイスでテキサス州ダラス地区にてマスクマンのザ・スポイラー(略奪者)に変身、以降、80年代後半までダラスのNWAビッグタイム・レスリング及びNWAから独立したWCWAを本拠地として活躍。 

ダラスでは68年、フリッツとNWAアメリカン・ヘビー級王座を巡って抗争を展開、ビリー・レッド・ライオンやダン・ミラーともNWAテキサス・ヘビー級王座を争いました。

69年はオーストラリアに遠征、当時のプロモーターはジム・バーネット。4月4日、シドニーにてスパイロス・アリオンを破り、豪州版のIWA世界ヘビー級王座を獲得。同年7月には日本プロレスに素顔のザ・ブッチャーとして3度目の来日、8月10日に田園コロシアムで馬場のインターナショナル級王座に挑戦し、2−1で敗れました。

北米大陸ではその後もスポイラーとしてファイトし、オクラホマのNWAトライステート地区では70年3月20日、強豪ダニー・ホッジを破ってNWA北米ヘビー級王座を奪取。同地区では、スポイラー2号に変身したバディ・ウォルフとの「ザ・スポイラーズ」を一時的に結成、71年5月2日にはグリズリー・スミス(Jロバーツの父親)&ルーク・ブラウン組のザ・ケンタッキアンズを破ってUSタッグ王座を獲得しています。同年8月には、日本プロレスの「サマー・ミステリー・シリーズ」にもスポイラーとして初参戦、通算4度目の来日を果たしています。(この項続く)
3 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年12月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31