79年新日本プロレス「闘魂シリーズ」参加外国人レスラープロフィールの続きです。WWF北米ヘビー級王者パット・パターソンは77年11〜12月の「闘魂シリーズ第2弾」後半戦特別参加以来約2年ぶりの来日。78年は来日なし。
前回の来日では77年12月1日、大阪府立体育会館で猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。24分1秒の激闘の末、卍固めに敗れましたが、パターソンの粘り強さ、強さを日本のファンに見せつけました。
「サンフランシスコの帝王」の異名を持ち、同地区の看板タイトルであるUSヘビー級王座に長く君臨していましたが、77年よりサンフランシスコを離れ、NWAフロリダ(エディ・グラハム主宰のCWF)AWAなど各地の主要テリトリーをヒールのポジションで転戦。
AWAではサンフランシスコ時代タッグを組んでいたレイ・スチーブンスとのコンビを再結成、78年9月23日、前王者チーム、ジム・ブランゼル&グレッグ・ガニア組のザ・ハイフライヤーズのブランゼルの負傷により闘わずしてAWA世界タッグ王座を獲得。以降、マイティ・イゴール&ルーファス・ジョーンズ組、ポール・エラリング&スティーブ・オルソノスキー組、バーン・ガニア&ビル・ロビンソン組、前王者チームのハイ・フライヤーズなどを相手に防衛を続け、翌79年6月6日にカナダ・マニトバ州ウィニペグでVガニア&マッドドッグ・バション組に敗れるまで9か月間保持。
AWA世界タッグから転落した後は、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場。79年6月19日にペンシルバニア州アレンタウンでテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取。その後、ブラジルのリオデジャネイロで行われたという架空のトーナメントに優勝したと称して、同王座を北米と南米との大陸間のインターコンチネンタル・ヘビー級王座と改称していますが、この変遷について深堀りしていこうと思います。
WWF版の北米ヘビー級王座はこの年にパターソンがNWAのセントルイス地区からWWFに修行にやって来たテッド・デビアスから6月19日、ペンシルバニア州アレンタウンで奪取したとされています。
ではデビアスの前は誰が王者だったのか?
当時のデビアスは次期NWA世界ヘビー級王者候補でしたがいかんせん地味な存在の選手でこれと言った特徴がありませんでした。特徴のなかったデビアスはWWFに移籍する前に活動していたテキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックから「北米ヘビー級王者」のギミックを与えられてWWFへの手土産としてベルトを持ってニューヨークにやって来ました。
デビアスの上手さ、強さ、底知れないスタミナは定評があり、NWA世界王者には適した人材でありレスラーとしてもう一段オーバーさせる為にダラスのフリッツからセントルイスのサム・マソニックを通じてニューヨークのビンス・マクマホン・シニアに預けられたのでした。
マソニックとビンス・シニアとの繋がりはあまり知られてはいませんが、ボブ・バックランドをWWFヘビー級王者に推薦したのはマソニックでした。
マソニックとビンス・シニア、これにフロリダのエディ・グラハムを加えた3人のプロモーターは「バック・トゥ・ザ・レスリング」を合言葉にバックランドをルー・テーズのような王者にしようとイメージしました。
バックランドが王者になった当初、首にタオルを巻いて黒のロングガウンで入場していたのを覚えおられる方も多いかと思います。
デビアスはこのプロジェクトの第2弾であり、先ずは全米一のマーケットであるニューヨークで経験を積ませる為にWWF入りした訳です。
パターソンもこの年にAWAからWWFにやって来ました。
扱いはもちろんキャリアと実績のあるパターソンの方が上で、WWF入りして直ぐの7月2日、MSGの定期戦でバックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。
パターソンの北米ヘビー級王座奪取はその直前の6月19日ですから、バックランドの王座に挑戦する為の箔付け、と言えるでしょう。
バックランドとパターソンの対戦はMSGのメインイベントで4回連続で行われ毎回ソールドアウトを達成。
その憎々しいヒールファイトでMSGに多数の観客を呼んで見せたパターソンを高く評価したビンス・シニアはデビアスの売り出しは後回しにしてパターソンと長期契約を結びました。
パターソンは、ブラジルのリオデジャネイロで行われた架空のトーナメントで優勝。北米と南米の両大陸を制した、として初代インターコンチネンタル王者に認定されています。
インターコンチネンタル王座は44年を経た現在もWWEに存在しており、世界ヘビー級、WWEヘビー級の両トップ王座に次ぐNo.2のベルトとしてその価値は不変です。
ちなみに「ブラジルのリオデジャネイロで行われたトーナメント」というディテールは63年2月にWWWFが設立された際に初代王者に認定されたバディ・ロジャースが王座を獲得した時に既に用いられています。
さらにはWCWと新日本プロレスが提携していた時代にはWWFのオフィシャルマガジンに「インターコンチネンタル王座はパターソンがブラジルのリオデジャネイロで行われたトーナメントで決勝でアントニオ猪木に勝って獲得した」と書かれています。
あまりにいい加減な話ですが、ブラジルで猪木を持って来たセンスだけは認めたくなります。
つまり、WWF北米ヘビー級王座はWWFが認定したものではなかった訳ですがパターソンはWWF認定の北米ヘビー級王者として79年10月の闘魂シリーズに来日しました。
WWF北米ヘビー級王者パット・パターソンが王者となった時期には前回書いた79年6月のペンシルバニア州アレンタウン説ともう一つ、同年10月22日ニューヨークMSGでのWWF定期戦でインターコンチネンタル王者パターソンと北米ヘビー級王者デビアスがダブルタイトル戦を行い、パターソンが勝って2冠王となった、という説もあります。
が、これはおそらく間違いで79年7月2日にパターソンがボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した時既に北米ヘビー級王者を名乗っていましたのでやはり6月19日のアレンタウンが有力です。
ただし、この試合も実際に行われていたかどうか確証はありません。
パターソンのAWAにおけるラストマッチは6月24日コロラド州デンバーでのジム・ブランゼルとの試合であるという記録が残っており、パターソンは26分1秒、十八番の足4の字固めを逆にかけられてギブアップ負けしています。
ローカルテリトリー時代は、残った選手に負けて出ていくのがこの世界の掟でありこの直後にバックランドと互角の試合をするパターソンが、格下のブランゼルに負けたのは納得いきますが、デビアスから北米ヘビー級王座を奪ったのが6月19日とすると、パターソンはAWAを離れる前にデビアスに勝って北米ヘビー級王座に就いていることになります。
さて、10月22日のMSG定期戦に関しましては別冊ゴング79年12月号にレポートが載っており、パターソンはデビアスと北米ヘビー級王座の「防衛戦」を行っており、7分54秒、回転エビ固めで勝って防衛に成功。日本で坂口征二の挑戦を受ける、とあります。
当時WWF定期戦レポートははゴング誌の「加山浩特派員」のほぼ独占であった為、現時点ではこれが唯一の信頼出来るソースとなります。
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