78年新日本プロレス「サマー・ファイト・シリーズ」参加外国人レスラープロフィールの続きです。次に紹介する両選手は、10年ぶりの来日で新日本プロレスには初登場となります。
「サモアの虎鮫」"チーフ"・ピーター・メイビア。本名ファネネ・ピーター・メイビア、1937年4月6日 、アメリカ領サモア島出身、当時41歳。
プロレスとハリウッド映画の双方で大活躍し、ハリウッド・セレブとなったドウェイン・ジョンソン(ザ・ロック)の母方の祖父に当たり、またメイビアの父親がアファ&シカ・アノアイのザ・ワイルド・サモアンズの義兄弟にあたるところから80〜2000年代にかけてのWWFの一大勢力となったサモアン・ファミリーの一員にも数えられています。
学歴などは不明ですがプロレスラー目指してニュージーランドに渡り、当地のプロモーター兼プロレスラーであるスティーブ・リッカードのコーチを受け、61年24歳でデビュー。 64年8月3日、リッカードを破りニュージーランド・ヘビー級王座を奪取。同年はカンガルー・ケネディ(66年に日本プロレスの「第8回ワールド・リーグ戦」に一度だけ来日)を降してオーストラレージアン・ヘビー級王座も獲得。この時期にヨーロッパ遠征も果たしています。
また、俳優としての活動もあり、ショーン・コネリー主演の「007は二度死ぬ」に出演。同作品は日本ロケを慣行、ボンドガールに若林映子、浜美枝が選ばれ、丹波哲郎他多くの日本人俳優陣が出演していますが、メイビアは悪役の運転手役で出演、プロレスラーとしてより映画撮影で日本を訪れています。
68年よりハワイを主戦場とし、5月22日にジム・ヘイディと組んでキング・イヤウケア&リッパー・コリンズ組からNWAハワイ・タッグ王座を奪取
同年11月、国際プロレスの「ワールド・チャンピオン・シリーズ」(第1回IWAワールド・シリーズ)にプロレスラーとして初来日、11月30日、蔵前国技館で予選リーグ戦でビル・ロビンソンと対戦し、反則勝ちながらロビンソンに土をつけました。
この時期ストロング小林はヨーロッパ武者修行に出ており、国際プロレスのリングでは両者は対戦していません。
シリーズ中、ロビンソンとはリングを離れたストリートファイトでも一戦交えた、ロビンソンは、この時にメイビアに目玉をくり抜かれて片目が義眼になったとされる文献がありますが、少年時代の怪我で片方の眼球を損傷していたと言うのが本当のところです。
リーグ戦は予選落ちでしたが、シリーズ最終戦の12月21日には大阪府立体育会館にてジョージ・ゴーディエンコと組み、豊登&サンダー杉山組のTWWA世界タッグ王座にも挑戦し2−1で敗退しています。
69年にアメリカ本土のカリフォルニア州サンフランシスコ地区に参戦、8月9日にペッパー・ゴメスと組んでキンジ渋谷&マサ齋藤組から同地区のNWA世界タッグ王座を奪取、ゴメスの負傷後は、レイ・スチーブンスや後に娘婿となるロッキー・ジョンソンをパートナーに、パット・パターソン&スーパースター・ビリー・グラハム組などのヒールチームと抗争を展開、71年7月31日にはポール・デマルコ(68年11月に日本プロレスに一度だけ来日)を破り、サンフランシスコ地区の看板タイトルのUSヘビー級王座を獲得しました。
国際プロレスに来日した時はありませんでしたが、この頃より下半身一面にサモア一族の首長の証として巨大なタトゥーを施して話題を集めています。
以降もハワイとサンフランシスコを主戦場として往復しつつもアメリカ南西部のテキサス州ダラス地区にも進出、75年10月31日にジョン・トロスからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取し、若手時代のスタン・ハンセンともタイトルを争いました。
76年はAWA地区に参戦、クラッシャー・リソワスキーやペドロ・モラレスと組み、マッドドッグ・バション、バロン・フォン・ラシク、ブラックジャック・ランザ、ボビー・ダンカンらと抗争。11月にはニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦していています。
77年よりWWWFに登場。サモアの王族コスチュームを身につけてのベビーフェイスとして活躍、同年11月21日、ニューヨークMSGではサンフランシスコ時代から因縁のある悪党王者SBグラハムのWWWFヘビー級王座に挑みましたが、15分17秒、リングアウト負け。インディアン・ギミックのチーフ・ジェイ・ストロンボーとのチーフ・コンビも人気を呼び、先のストロング小林のWWWF地区遠征ではヒールのポジションであるS小林とも対戦しています。
今回実に10年ぶり2度目の来日、猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力とは初対決、タフガイぶりを発揮するか。
「人間空母」、「お化けカボチャ」の異名を持ち、小学館の「プロレス入門」ではその大食いぶりが幻想を呼んだヘイスタック・カルホーンも10年ぶりの3度目の来日、1934年8月3日 、テキサス州マッキニー出身の当時43歳。
少年時代から地元の農場で働いていたが、その巨体をオービル・ブラウンに見込まれてプロレス界にスカウトされ54年にプロレス入り。オーバーオールを着用し、家畜の蹄鉄を鎖で首にぶら下げた農夫ギミックの体重273kgの超巨漢ベビーフェイスとして売り出されました。
単なる巨漢ではなく、レスリングの出来るプロレスラーとしても評価され、56年12月13日にはカンザス州カンザスシティにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、60年代初頭はニューヨークで体重300kgと言われたハッピー・ハンフリーとの巨漢対決で勝利を収めて注目を浴びました。試合中にリングに穴が空いたというエピソードはよく知られています。
62年10月にはロサンゼルスのWWAにて、エイブ・ジェイコブズ(アベ・ヤコブ、レッド・ピンパネール)と組んでWWAインターナショナルTVタッグ王座を獲得。
ロサンゼルスルートからグレート東郷のブッキングで63年3月、日本プロレスの「第5回ワールド・リーグ戦」に初来日。羽田空港から都心のホテルまで小型トラックの荷台で運ばれるなどの演出で話題を呼びました。
4月17日には日本返還前の沖縄・旭日橋バスターミナル特設リングで力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。2−1で敗れましたが、力道山は同王座に挑戦した他の巨漢レスラー、グレート・アントニオ、ムース・ショーラックとも2−0のストレートで降しており、カルホーンには1本フォールを許しているところから実力は認めていたということでしょう。
若手時代の猪木とはワールド・リーグ戦の公式戦も入れてシングルで2回対戦し、短時間でカルホーンの圧勝、また4月24日、大阪府立体育会館では猪木&吉原功、大熊熊五郎(元司)と1対3の変則タッグマッチが行われ、5分27秒にはカルホーンがフライング・ソーセージ(フライング・ボディプレス)で3人を一度に圧殺しています。
60年代後半はカナダのバンクーバー地区に転戦、6年7月にはドン・レオ・ジョナサンと組んでジョン・トロス&トニー・ボーン(85年に新日本プロレスに来日したマット・ボーンの父親)組からNWAカナディアン・タッグ王座を奪取、68年6月にもジョナサンとのコンビでジ・アサシンズA&B(トーマス・リネストゥ&ジョー・ハミルトン)を破り、再び同王座を獲得しています。
この間、66年12月にはアーカンソーをサーキット・エリアとするミッドサウスのトライステート地区にて、ジャック・ブリスコと組んでNWA認定USタッグ王座にも戴冠。68年8月にはマンマウンテン・カノン(クライベイビー・ジョージ・カノン)との巨漢コンビで日本プロレスに再来日しています。この時はタッグマッチながら馬場、猪木のBI砲両方からフォールを奪っています。
以来10年ぶりの来日、直近ではWWWFでベビーフェイスの中堅のポジションで活躍しS小林とも対戦、猪木とは10年ぶりの対戦、坂口、藤波、長州とは初対決になります。
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