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2023年04月19日23:01

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週プロ流智美あの日あの時予想2022年総括(50)

第267戦、12月14日発売号●【予想】ハンセンショックの翌日、藤波辰巳、沼谷かおりさんと挙式(81年新宿・京王プラザホテル)【正解】猪木が衝撃のMSG初登場、vsフランク・モンティ(75年ニューヨークMSG)【参考】2011年12月14日発売号はスタン・ハンセンの12月、80〜99To Weeks(ハンセンの80〜99年の20年間の12月のこの週に起きた出来事)、2016年12月14日発売号は「世界オープン・タッグ選手権」ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組vs馬場&鶴田組、ビル・ロビンソン&ホースト・ホフマン組vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組、大木金太郎&キム・ドク組vsラッシャー木村&グレート草津組(77年全日本プロレス大阪府立体育会館)

1年前に予想したものが今になって採り上げられたのがこの回でした。

【予想解説】藤波は78年1月WWWFジュニア・ヘビー級王者となり凱旋帰国、空前のドラゴンブームを巻き起こしました。防衛戦を順調に行い24度の防衛に成功、79年10月2日、大阪府立体育会館でフリーの剛竜馬に16分53秒、逆さ押さえ込みで敗れ転落、僅か2日後の10月4日、蔵前国技館で剛を14分13秒、回転足折り固め(ジャパニーズ・レッグロールクラッチホールド)で降してベルト奪回、以後、28度目の防衛を果たし、通算52回に亘る防衛に成功。

また、80年2月1日には札幌中島スポーツセンター(同年4月に建物の所管が札幌市から北海道に代わり「北海道立札幌中島体育センター別館、通称札幌中島体育センター」に変更)でNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者、スティーブ・カーンと自ら保持するWWFジュニア・ヘビー級王座を賭けたダブル・タイトルマッチに勝利し二冠王となります。

その後NWAインタージュニア王座はマイク・グララムに一旦は奪われるもすぐに奪回、同年7月、右手薬指骨折の為タイトルは返上していますが、既に「ジュニアに敵なし」の存在になっていました。

藤波の人生に公私ともに転機が訪れたのがこの81年で、この年はヘビー級への転向と結婚という大きな出来事が起きています。

6月8日、MSGのリングに登場した藤波はWWF地区で武者修行を積んでいた谷津とタッグを組み、キング(国際プロレスに来日したセーラー・ホワイト)&レックス(ランディ・コーレイ)のザ・ムーンドッグスの保持するWWFタッグ王座に挑戦、反則含みで2−0で藤波&谷津組がストレート勝ちしていますが、ルールによりタイトル移動はなし。

試合後、テレ朝の勝利者インタビューに答えた藤波はリング上に婚約者の沼谷かおりさん(伽織夫人、当時27歳)を紹介しています。

かおりさんは大阪出身、プロレスファンだったかおりさんの実弟(後に新日本プロレス次長となる)に誘われて78年10月20日、寝屋川市民体育館でのチャボ・ゲレロとのWWWFジュニア・ヘビー級選手権試合を観戦に行きました。試合は藤波が大流血の末、1−1からの3本目、血染めのコブラツイストでチャボをギブアップさせて10度目の防衛を果たし、WWWFから「ベルト永久保持」(タイトルではない)を認められましたが頭部を裂傷。

藤波を心配したかおりさんが新日本プロレスの大阪の定宿だった「ホテル南海」に藤波を訪ねて行き藤波が一目惚れ、交際が始まり婚約発表に至りました。

帰国後改めて婚約発表記者会見が行われ、猪木も同席。会見の席上、猪木は「藤波は今が一番大切な時、家庭を持つことは飛躍に直結するし、ますます頑張ってもらいたい。これを機に俺の後継者としての道を歩んで行って欲しい」とコメントしています。

定説では穏健な性格の藤波を猪木が後継者に指名する気などさらさらなく、後に長州力を現場監督にしたり、前田日明が後継者の本命だった、等々いろんな声がありますが、この会見はUWF、ジャパンプロレスの出来る前の話で、おめでたい席だから多少の外交辞令はありますが、藤波を後継者にと考えていた時期もあったということでしょう。

81年11月5日、蔵前国技館で正式にヘビー級転向を発表、WWFジュニア・ヘビー級王座を返上しています。

ヘビー級転向直後の「第2回MSGタッグ・リーグ戦」では猪木と組んでの出場、スタン・ハンセン&ディック・マードック組のテキサス・ロングホーンズと並んで2位となりました。1位がアンドレ・ザ・ジャイアント&レネ・グレイ組で、優勝決定戦が行われた12月10日、大阪府立体育会館ではまず決勝進出者決定戦で猪木&藤波組とハンセン&マードック組が対戦。

マードックのブレーンバスターを猪木が下から足を掬って妨害、藤波が上になり12分47秒、マードックを体固めで破り決勝進出。 

続けて行われたアンドレ&グレイ組との優勝決定戦では師匠・猪木と二人がかりでアンドレの250kgの巨体をボディスラムで投げてみせましたが、8分5秒、アンドレのジャイアント・プレスからの体固めで藤波がフォールされ、猪木&藤波組は準優勝に終わりました。

ヘビー級転向で一定の成果は挙げたと言ってよく、翌82年からは「飛龍十番勝負」のスタートも決まっています。

新日本プロレスブームと言われた81年の全日程は大阪で終了していますが、12月13日、全日本プロレスの蔵前国技館大会「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦に3日前まで新日本プロレスで試合をしていたハンセンが殴り込み、ハンセンの全日本プロレスへの移籍が決定、新日本プロレスに衝撃が走りました。

藤波の結婚式は「ハンセンショック」の翌日12月14日、猪木と同じ新宿の京王プラザホテルで1,200人以上の招待客を集め、東京スポーツ新聞社取締役編集総長、高橋典義夫妻の媒酌にて行われました。

披露宴会場にはリングが作られ荒川真と新倉史裕のエキシビションマッチも行われ、その後のお色直しの後、新郎の藤波自ら若手の仲野信市とエキシビションマッチを行い、前代未聞の結婚披露宴となりました。

藤波は「お色直しの後、家内は高砂へ、ぼくは逆側に幕が開いてリングの方へ。披露宴で試合ですよ(笑)。猪木さんも、新日本プロレスも驚かすことが好きですからね」と当時を振り返っています。

【正解解説】75年「闘魂シリーズ第2弾」最終戦、12月11日、蔵前国技館でのビル・ロビンソン戦で1−1から時間切れ引き分けでNWF世界ヘビー級王座2度目の防衛を果たした猪木は疲れを癒す暇もなくニューヨークへ出発。

12月15日にはMSG定期戦に初出場、猪木のMSG出場は、アメリカ武者修行時代の馬場はともかく、鶴田、ストロング小林よりも後であり、まさに「満を持して」という感じです。

猪木の対戦相手は当初、米IWAからWWWF入りしたアーニー・ラッドと発表されていましたが、ラッドが負傷の為棄権したとされています。ラッドであれば、前74年にオハイオ州クリーブランドと札幌でNWF世界ヘビー級王座を巡って死闘を展開した相手であり好試合が期待されましたが、ラッドはトップヒールでありゲスト出場の猪木に簡単に負けさせる訳にはいかなかったのでしょう。

未来日のフランク・モンティ(日本プロレスに来日したゲーリー・モンティと同一人物説もあるが別人)を8分43秒、バックドロップからの体固めでフォール勝ち。MSG初戦を勝利で飾りました。

※対戦戦績は267戦48勝219敗、勝率180。
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