第261戦、11月2日発売号●【予想】猪木、倍賞美津子さんと華燭の宴を挙げる、1億円結婚式(71年新宿・京王プラザホテル)【正解】舌出し失神事件の3年前、ホーガンがNWF初挑戦、NWFヘビー級選手権試合、猪木vsハルク・ホーガン(80年11月3日新日本プロレス蔵前国技館)【参考】2016年11月2日発売号は予想に同じ。
【予想解説】「あの日あの時」で「3回」採り上げられたネタといえば72年3月6日、大田区体育館での新日本プロレス旗揚げ戦と、これは採り上げている出来事が微妙に違うので同一視してはいけないかと思いますが72年10月の全日本プロレス旗揚げに関する一連の関連記事。
やはり日本プロレス史上に大きく残るエポックメイキングな出来事であり、1ページのコラムだけでは伝えきれないのも事実で角度や視点を変えて検証していくことも予想の当たり外れは置いといて必要なことだとは思います。
猪木と倍賞さんの結婚ネタについては2016年11月2日発売号、2021年の結婚50周年に当たる昨年の11月2日発売号と2回既に採り上げられています。
猪木が亡くなっていなければ予想には入れなかった話題で、2022年10月14日に行われた告別式で猪木と倍賞さんの間に生まれた一人娘・寛子さんが、ミュージカル「アニー」出演以来約36年ぶりに公の場に姿を現したのを見て、やはり猪木のリング内外の人生が最も輝いていたのは倍賞さんと結婚していた時期ではなかったかと思われ、敢えてこの回に予想させて頂きました。
猪木は、最初はアメリカ武者修行時代に知り合ったダイアナさんと結婚、女児を授かりました。猪木の話によれば入籍はしておらず、公表はされていませんでした。娘さんの名前は文子(あやこ)で猪木の母親である文子(ふみこ)さんと同じ字で読み仮名違い。文子ちゃんは残念ながら小児癌に罹患し8歳でその短い生命を終えています。
68年に「月刊プロレス」の藤沢久隆記者の取材依頼に応えダイアナさんとの家庭生活を披露しています。
2度目の結婚が倍賞さんで倍賞千恵子、美津子姉妹と交流のあった豊登の紹介で交際が始まりました。倍賞さんは1946年11月22日、茨城県の出身で東京都北区に移住。松竹歌劇団を経て67年に女優デビュー、映画やテレビドラマに多数出演していました。
71年3月26日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムでジョン・トロスを破りUN王座を獲得した猪木は3月29日の帰国記者会見にロサンゼルスに連れてきていた倍賞さんとの婚約を発表。
11月2日、日本テレビの「日本プロレス中継」スポンサーだった三菱電機会長の大久保謙夫妻の媒酌で京王プラザホテルにて挙式、プロレス界の若きエース猪木(当時28歳)と松竹の人気女優、倍賞美津子さん(当時24歳)の「1億円結婚式」は「世紀のビッグカップル誕生」とスポーツ、芸能界の両方で大きな話題を集めました。
京王プラザホテルはこの年にオープンしたばかりの最高級のホテル、媒酌人は日本テレビの「日本プロレス中継」メインスポンサーである三菱電機の大久保謙夫妻(敬称略)。代表祝辞は日本プロレスリング・コミッショナー、衆議院議員で元自民党副総裁、元外務大臣の椎名悦三郎、乾杯の音頭は笹川良一日本船舶振興会会長、猪木側祝辞は衆議院議員の秋田大助、倍賞側祝辞は松竹会長の城戸四郎が務めています。
出席者はスポーツ界、芸能界を初め1,500人が招待され、プロレス界からは馬場、坂口征二、大木金太郎、吉村道明以下所属選手大多数、芳の里淳三社長。他、中村(萬屋)錦之助、淡路恵子夫妻、田宮二郎、堺正章、笹みどり、フランキー堺、長門勇、林家木久蔵(木久扇)、立川談志、一龍斎貞鳳、由利徹、荒船清十郎、コロムビア・トップらが出席。
挙式前に芳の里社長は猪木に「宣伝になるから盛大にやれ、費用は会社が持つ」と言い、猪木によれば「本当に1億円かかってしまった」(猪木自伝「燃えよ闘魂」より)ということでした。
猪木は12月9日、大阪府立体育会館でドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界ヘビー級、UNのダブルタイトルマッチを控えており「年末にジュニア(ドリー)が来るので、新婚旅行は延期です。新居も決まっていなく、世田谷に土地を買ったばかり、それまでは倍賞家に居候ですよ」と報道陣に笑ってコメントしています。
人生の絶頂だった猪木ですが、僅か1か月後に会社乗っ取りを企てたクーデター犯として日本プロレスを除名・追放処分となり日本プロレスを追われ、結婚式の費用も払って貰えず、倍賞さんとの新婚生活に予定していた世田谷区野毛の土地は新日本プロレスの道場兼合宿所になり、猪木夫妻は代官山の賃貸マンション住まいとなる訳です。
結婚してすぐに日本プロレスを追放された時、倍賞さんは笑いながら「あんたの1人ぐらい私が食べさせてあげるわよ」と猪木を励ましており、新日本プロレス旗揚げに際しては宣伝カーのアナウンスを倍賞さんがテープレコーダーに吹き込むなど「内助の功」を如何なく発揮。
74年8月2日に長女・寛子さんが誕生していますが87年9月に離婚、離婚理由は猪木の不倫と言うのが定説ですが実際の理由は猪木のブラジルでの個人事業、アントンハイセルの失敗による数十億円と言われた借金が原因かと思われます。
猪木は参議院議員選挙に当選した89年に22歳年下の戸倉尚美さんと47歳で3度目の結婚、男児をもうけるも離婚、最後は専属カメラウーマンだった橋本田鶴子さんと4度目の熟年婚をしていますが2019年に田鶴子さんは癌の為に亡くなられ死別しています。
【正解解説】プロレス界を代表する世界のスーパスター、アイコンとなったハルク・ホーガンは本名テリー・ボレア、1953年8月11日、フロリダ州タンパ出身、出生地はジョージア州オーガスタ。
少年時代は圧倒的な体格を生かし、野球のリトルリーグでは強打者として活躍していたが、太り過ぎており足が遅く、他のスポーツは苦手であったといいます。高校時代にボディビルで体を鍛え肉体改造に成功、一方でミュージシャンとしての顔を持ち南フロリダ大学時代から「ラッカス」というロックバンドのベーシストとして活躍していました。
プロレスファンだったホーガンはスーパースター・ビリー・グラハムに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのパフォーマンスの上手さには自信を持っており、プロレスラーになることを決意。Bグラハムには弟子入りを断られるも、地元NWAフロリダ地区のCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)のプロモーターだったエディ・グラハムの息子マイク・グラハムを介して同社共同オーナーだったヒロ・マツダに入門、プロレスラーになるべくコーチを受けました。
「才能のないでくの坊」とホーガンを買っていなかったマツダは早く潰してプロ入りを諦めさせようと厳しいシゴキをし、ホーガンは足を骨折してしまいます。しかしホーガンは必死に食らいつき、77年8月にマスクマンのスーパー・デストロイヤーを名乗り、ブライアン・ブレアーを相手にデビュー。
以後、素顔になってからはテリー・ブルドー、スターリング・ゴールデンなどのリングネームで、Bグラハムをモチーフとしたマッチョ系の新鋭選手として、アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング、テネシーのCWA、ジョージアのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングなど、南部の各プロモーションを股にかけてベビーフェイスとして転戦。
アラバマでは79年6月にオックス・ベーカーから南部版のNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取、同年12月にはディック・スレーターを破り同王座の北部版も獲得。同年5月〜7月にかけてはモービルおよびドーサンにて、アラバマ地区に遠征に来た当時のNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイス再三に亘り挑戦。テネシーで地区メンフィスの英雄ジェリー・ローラーのタッグパートナーを務め、ジョージア地では10月19日にアトランタのオムニ・コロシアムでスタン・ハンセンと対戦しています。
同時期、日本でも放送されたテレビドラマ「超人ハルク」主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が話題を集めています。
これにインスパイアされ、ザ・ハルクをニックネームに用いるようになりました。控室で陰湿ないじめに逢いプロレス界を離れ港湾労働者に転じていた時期もありましたが、テリー・ファンク、ジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコら先輩に説得されて復帰を果たし、WWF入りのチャンスを掴みました。
79年12月、WWFに初登場、ビンス・マクマホン・シニアの発案でハルク・ホーガンとリングネームを改名、新日本プロレスから猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力らが遠征してきた12月17日、MSGで元北米ヘビー級王者、テッド・デビアス相手にWWFデビュー戦を行い僅か9秒、ベアハッグでギブアップ勝ちを収めました。
以後、アンドレ・ザ・ジャイアントに対抗出きる超大型のヒールとして育てようとフレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、メインイベンターのポジションを任せられゴリラ・モンスーン、ティト・サンタナ、ドン・デヌーチ、レネ・グレイ、ジョニー・ロッズ、カルロス・ホセ・エストラーダ、イワン・プトスキー、パット・パターソンらを相手にデビュー戦から20数連勝という快進撃を見せました。
80年5月「第3回MSGシリーズ」に初来日。既に売れっ子であったホーガンはアメリカでのスケジュールの都合のため公式戦には参加せず、初来日ながらシリーズ後半戦への特別参加という扱い、初来日第1戦は5月13日、宇部市俵田翁記念体育館で永源遙を2分7秒、ベアハッグでギブアップ勝ち。テレビ初登場の5月16日、刈谷市体育館ではストロング小林を3分38秒、カリフォルニア・クラッシュ(オクラホマ・スタンピード)からの体固めで撃破。
当時の公式プロフィールでは1955年8月11日カリフォルニア州ベニスビーチ出身と称しており金色のマントを纏って入場、白のトランクスで背中には黒い剛毛を生やしていました。
猪木との初シングルマッチは5月23日、宮城県迫町体育館のテレビ生中継のメインイベントで実現し5分40秒に反則勝ち。
このシリーズ、ハンセンのタッグパートナーを務め、シリーズ最終戦、6月5日、蔵前国技館での優勝決定戦は、決勝リーグ戦1位が猪木、2位にアンドレ、ハンセン、坂口征二の3人が同点で並ぶ展開に。決勝進出者決定トーナメントは抽選で決められ、まず第1試合で4分37秒、アンドレが坂口をヒッププレスで圧殺、次いで行われた第2試合、シードのハンセンがアンドレと対戦、ホーガンは試合に乱入、場外でアンドレを引き付けている間にハンセンがリングに上がり1分48秒、ハンセンのリングアウト勝ち、ハンセンの優勝決定戦進出を巧みにサポート。
優勝決定戦の猪木vsハンセンの試合にも乱入、絞首刑用のブルロープを持って加勢、7分49秒、猪木の反則勝ちによる優勝に終わりました。
帰国後の8月9日、ニューヨーク・シェア・スタジアムで開催されたWWFのビッグイベント『ショーダウン・アット・シェア』ではアンドレとのシングルマッチが組まれ、試合には敗れたものの、アンドレをボディスラムで投げ捨てています.
2度目の来日は80年10月10日、後楽園ホールで開幕した「闘魂シリーズ」。タイガー・ジェット・シンに次ぐ外国人陣営の準エース格の扱いで、シンは猪木とのUWA世界ヘビー級王座を巡る抗争を展開中で、ホーガンはシリーズ天王山、11月3日、蔵前国技館で猪木のNWFヘビー級王座に挑戦するチャンスを摑みました。
試合はホーガンの直線的なカリフォルニア・クラッシュ連発攻撃を受け切った猪木が13分19秒、ブレーンバスターからの体固めでフォール勝ち、6度目の防衛に成功しています。
81年の新日本プロレスと全日本プロレスの引き抜き抗争では、全日本プロレスへの移籍を口頭でOKしておきながら新日本プロレスにその事実を告げて、引き留めの為にギャラアップを要求して残留。したたかで交渉上手なところを見せており、その後のホーガンのレスラー人生においてもそういった部分が存分に発揮されました。
その後82年に公開された映画「ロッキー�掘廚縫廛蹈譽好蕁次▲汽鵐澄璽螢奪廛耕鬚能弍蕕靴織曄璽�ンは次第に怪物化していき、新日本プロレスでは糖尿病で体力が衰えた猪木のタッグパートナーを務め、猪木の隣でいろんなエッセンスを盗んでいきました。
※対戦戦績は261戦46勝215敗、勝率176。
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