第254戦、9月14日発売号●【予想】力道山伝説の「終わりの始まり」、右胸鎖関節を亜脱臼、アジア・タッグ選手権試合、力道山&豊登組vsスカル・マーフィ&ゴリラ・マコニー(62年日本プロレス東京体育館)【正解】打倒・猪木を目指すR木村の「こんばんは」前夜、国際プロレスのR木村ら3人が強化合宿(81年秩父市熊野山)【参考】2016年9月14日発売号は維新軍、正規軍との最終抗争に突入、猪木&藤波辰巳&木村健吾組vs長州力&アニマル浜口&谷津嘉章(84年新日本プロレス駒ヶ根市民体育館)
【予想解説】力道山のプロレスラーとしての現役生活は1951年10月28日、在日宗教団体「トリイ・オアシス・シュライナークラブ」の招きで進駐軍慰問プロレスとしてボビー・ブランズ一行らが来日して両国メモリアルホール(旧両国国技館、日大講堂)でブランズを相手にデビューしてから12年1か月と少し。
まさに「花の生涯」と言えますが、力道山の肉体面に衰えがハッキリ出たのが晩年の63年、既にアルコールの大量摂取と受け身からくるダメージで内臓はボロボロと言われてはいましたが、前年秋に起きました負傷事件が大きく関与したことは間違いのないところかと思います。
62年「プロレス国際試合・秋の陣」開幕戦となった9月14日、東京体育館のメインは力道山&豊登組に初来日のマーフィ&マコニー組が挑戦したアジア・タッグ選手権試合。
開幕戦と言ってもマーフィ、マコニーら参加外国人レスラー達は7月20日から行われていた「プロレス国際試合・夏の陣」からの残留参加でシリーズの間隔が1週間しかありませんでした。
両チームは夏の陣の8月31日、渋谷・リキスポーツパレス大会でノンタイトルで対戦し、暴走した日本組が2本とも反則負けとなり外国人組が2−0でスコアの上では勝っていますが、両チームとも怒りの収まりはつかず、遺恨勃発。
試合は両チームの喧嘩ファイトに大荒れの展開となり、61分3本勝負でしたが1本目の19分9秒にノーコンテスト、2本目以降は行われず。乱闘の際、マーフィがムース・ショーラックを呼び寄せ、3人がかりで力道山を攻撃、ダウンした力道山にマーフィがニードロップ、これが力道山の鎖骨を直撃、右胸鎖関節亜脱臼と診断されました。
力道山は翌日から、横須賀、秩父、館林、名古屋の4大会を欠場、9月20日の大阪府立体育会館からカムバック、豊登&遠藤幸吉とトリオを結成し、マーフィ&マコニー&アート・マハリック組を2−0のストレートで破っていますが、上半身に当時慶應義塾大学付属高校でアメリカンフットボール部に所属していた長男の義浩君(当時16歳)が部活で使っていたプロテクターを着けて登場しました。
この負傷により、空手チョップの威力が損なわれたことは間違いのないところです。
【正解解説】81年8月9日、北海道・羅臼町総合グラウンド大会で15年に亘る歴史に幕を閉じた国際プロレス。
所属選手の去就が注目されましたが、吉原功社長は選手を新日本プロレスに預けるつもりで、「自分はどうなってもいい、だが、選手を路頭に迷わせる事は絶対にさせたくない」と吉原功社長は早稲田大学レスリング部の先輩に当たりテレビ朝日から新日本プロレスに役員として出向していた永里高平専務に所属選手を預ける方向で話し合いを続けていました。
その流れで9月7日、京王プラザホテルで記者会見が行われ、10月8日、蔵前国技館では新日本と国際の全面対抗戦が行われる事が発表されましたが、対抗戦とは名ばかりで実際は国際は団体としては機能していませんでしたので、新日本が実質的に国際を吸収したのと同様でした。
記者会見に出席した国際勢は吉原社長の他、ラッシャー木村、アニマル浜口、阿修羅・原、寺西勇の4人。マイティ井上の姿はありませんでした。
新日本プロレスはシリーズ中ということもあり、猪木は出席せず、坂口征二副社長、永里専務、新間寿営業本部長が出席。
この日発表された蔵前大会の対抗戦のカードは猪木vsR木村、藤波vs原、長州vs浜口、タイガーマスクvsマッハ隼人、星野勘太郎&剛竜馬組vs寺西&鶴見五郎の5試合。
さらに全日本プロレスに参戦が発表されていたハルク・ホーガンとアレックス・スミルノフが新日本に参戦、スタン・ハンセン、ホーガン組vsスミルノフ、バッドニュース・アレン組のスペシャルマッチが行われると発表されています。
国際のエース外国人だったスミルノフに新日本と全日本から同時に誘いの手が伸びた訳です。
同じく国際のリングで6年にわたって活躍し、最後のシリーズにも来日したジプシー・ジョーは羅臼大会終了後も日本に留まり、自ら馬場に売り込んで全日本参戦を決めていました。
結果ホーガンは新日本に残留しましたが、スミルノフは全日本のリングへ参戦する事になりました。
対抗戦の記者会見に出席しなかった井上は日頃から「猪木さんのやり方は好きじゃない」と公言しており、9月16日には井上、米村天心、菅原伸義(アポロ)、冬木弘道が馬場同席のもと全日本プロレスへの入団を発表しています。
(米村は入団会見の場にはいたが入団せず会津でちゃんこ料理「やぐら太鼓」を経営する傍ら全日本へスポット参戦となった)
井上は新日本行きを命じた吉原社長に対し「今まで会社に尽くして来たのだからこれからは好きなようにさせてもらう」とノーをつきつけて若手を連れて全日本へ。
給料の遅配や未払のあった吉原社長には抑止力はもうなく、井上の申し出を拒絶する事はできませんでした。
記者会見に出席した原ですが、誰か助言者がいたかと思いますが「ヘビー級の俺が何で今更、ジュニアの藤波とやらなくてはいけないんだ」と藤波戦を拒否して故郷・長崎に帰ってしまいました。
そして「俺と大してキャリアの変わらない天龍が全日本所属だと言うだけでリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦出来るなんておかしい。天龍はまずは俺とやって勝ってからフレアーに挑戦しろ!」とターゲットを天龍に変更し、一転して全日本プロレスへの参戦を決めています。
さらに鶴見は西ドイツへ遠征、タイガーマスクとの一戦が敗者覆面剥ぎマッチとなるという噂がまことしやかに流されて新日本のフロントに不信感を持ったマッハ隼人はメキシコに逆戻り、高杉正彦もマッハに帯同して一緒にメキシコへ遠征に出発。
若松市政は前年、以前から希望していたカナダ・カルガリー遠征に際し、地元北海道・芦別で壮行興行をやってもらい、餞別迄もらっており、その生真面目さから10月8日の新日本の蔵前大会にレフェリーとして出場した後、自費でカルガリーまで渡りました。
既に前年7月に右足アキレス腱断裂の重傷を負って引退興行をすることなくリングを去っていたグレート草津は日本バスコンの営業部長に再就職、プロレス界と訣別しました。
秋吉豊幸とミスター珍は引退。今のようなインディー乱立時代ではありませんから、デビューしたばかりの秋吉と50歳を超えて腎臓に疾患を抱える珍に上がるリングはありませんでした。
9月14日からR木村達国際プロレス勢はは新日本プロレスとの対抗戦に備えて秩父市の熊野山で強化合宿を行いましたが、その時に参加したのはR木村、浜口、寺西の3選手。結局、新日本プロレスのリングに上がるのはこの3人のみとなった訳です。
リングは荒川の上流にリングを持っていた士道館空手(添野義二館長、当時は黒崎健時、藤原敏男が主宰していた新格闘樹の傘下組織だった)から借りて行っています。
カード変更で藤波と対戦する寺西は頸動脈チョップ、剛と対戦する浜口はブレーンバスターの体勢から前に落とす顔面砕き(フェイスバスター)を披露。メインイベントで猪木と対戦するR木村は猪木の打撃を想定しての肝臓破りのパンチ攻撃を披露しています。この合宿を経て、9月23日、新日本プロレスの田園コロシアムにR木村、浜口が登場することとなりR木村の「こんばんは」に繋がることになる訳です。
※対戦戦績は254戦45勝209敗、勝率177。
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