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2023年02月07日22:43

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週プロ流智美あの日あの時予想2021年総括(30)

第196戦、7月28日発売号●【予想】初の日本人同士の金網デスマッチ、上田馬之助vsラッシャー木村は没収試合でタイトル預り(76年国際プロレス銚子市体育館)【正解】猪木とテリー・ファンクが初のシングル対決(70年日本プロレス横浜文化体育館)

今回は予想と正解のネタが私の中で最後まで二択で残りましたが、一択勝負の為どちらかを選ばなければ成らず、結果的には外してしまいました。

73年4月の日本プロレス崩壊後、馬場の全日本プロレスのリングに上がっていた上田は処遇面、マッチメイクに対する不満から10月9日、蔵前国技館大会を最後に全日本プロレスのリングを離れ渡米、フロリダ州ペンサコーラを中心に活躍していました。

日本プロレスから全日本プロレスに移る時、上田他、日本プロレスの残党は全日本プロレスと日本テレビの両方と3年契約を交わしており、契約金も受け取っていたので上田は日本の他団体のリングに上がることはしませんでした。

3年契約が満了となる年の76年1月、上田は「日本選手権をやろう、俺も参加する」とペンサコーラから新日本プロレスの猪木、全日本プロレスの馬場、国際プロレスのR木村に挑戦状を送り付けています。

猪木、馬場は黙殺しましたが、国際プロレスの吉原功社長が真っ先に反応し5月23日、後楽園ホールで開幕の「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」に上田を呼びました。上田は髪の前頭部を金髪に染めた「まだら狼」として3年ぶりに日本のリングに登場し、日本人としては初の本格的ヒールファイトを展開。観客を驚かせました。

6月11日、古河市立体育館で上田はR木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。両者大流血の壮絶な喧嘩マッチとなり、16分35秒、レフェリーの死角を突いたカウンターの凶器攻撃からの体固めでR木村から3カウントを奪い、団体の看板であるIWA世界ヘビー級王座を奪い取りました。

「ゴング」76年8月号ではカラーグラビアで金髪を朱に染めた上田がIWAのベルトを持って満面の笑みを浮かべている写真が掲載され強いインパクトを与えました。アメリカでは「ストーンフェイス」と呼ばれヒールとしての表情が乏しく、プロモーターから怒られてばかりいた上田は毎日ホテルに帰って鏡の前で表情作りを研究していたというエピソードは有名な話ですが、表情からも自身に満ちたヒールぶりが伺えました。

上田の挑戦を黙殺していた新日本プロレスですが、上田が国際プロレスの看板タイトルであるIWA世界ヘビー級王座を獲得したと知るや、態度を変えました。

今でこそ、様々な検証を経て再評価されたモハメド・アリvs猪木の「格闘技世界一決定戦」ですが、終わったばかりは酷評の方が多く、「アリショック」と言われ地方の売り興行もいくつかキャンセルが出たり、アリ戦でクローズドサーキット(ライブビューイング)の収入が当初の見込みより全然伸びず、7億円とも10億円以上とも言われた負債を背負い、NETが肩代わりする代わりにNETから役員が出向してきて猪木、坂口征二は代表権を失い管理下に置かれるなどダメージを被りました。

それだけに、アリ戦後の話題作りのネタに困っていたのは事実で上田に触手を伸ばして来ました。

アリ戦の行われた3日後の6月29日、IWA世界ヘビー級王者として国際プロレスの「ビッグ・サマー・シリーズ」に参戦する為に帰国した上田は記者会見を行いアリ戦での猪木を痛烈批判。

「プロならプロらしく、一つガツンとやって欲しかった。同じレスラーとして全く腹立たしい。やるべき日本選手権をそっちのけにして、やるべきではない試合に血道をあげることが間違っている。しかし、やった以上は堂々と闘って欲しかった。挑戦者が寝たきりとは恥ずかしい限りだ。あれが日本を代表するレスラーだと思われたのでは俺たちの立つ瀬がない。

俺は後援者を通じて猪木に出した挑戦状の回答を待っている。しかし、新日本プロレスは『アリ戦が終わるまで待ってくれ』というだけ。それが終わっても何の回答もない。もう俺は黙って待ってはいない。猪木がアリ戦を『真剣勝負だからああなったのだ』などと言うのなら、俺が本当の真剣勝負のやり方を教えてやる」と挑発しました。

これを受けて「アジア・リーグ戦」が開幕する前の7月1日、新間寿営業本部長が既に出されていた上田の猪木への挑戦状を「条件付」で回答を出したと発表。条件とは「�‐綸弔�IWA世界王者であること。�⊇臀�としてまず坂口と対戦し、勝った場合に猪木と対戦出来る」の2つ。いかにも新日本プロレスらしいやり方。

この新日本プロレス側の回答には、「ストロング小林や大木金太郎とやる時にそんな条件付けたか?格下扱いするな!」と怒り心頭の上田でしたが、国際プロレスの看板ベルトであるIWA世界ヘビー級王座のベルトを持っている以上、いくらフリーとは言えベルトを持ったままのジャンプは許されるものではないです。

新日本プロレスからすれば2年半前のS小林に続く露骨な国際プロレス潰しとなり、上田もこの時点で既に国際プロレスから新日本プロレスにジャンプする気満々の様子。そんな中、上田は7月4日、後楽園ホールで開幕の「ビッグ・サマー・シリーズ」に参戦することになります。

新IWA世界ヘビー級王者として76年7月4日、国際プロレスの「ビッグ・サマー・シリーズ」開幕戦のリングに上がった上田馬之助。このシリーズは後にストロング小林同様の道を辿り、フリーから新日本プロレスに入団することになる剛竜馬(八木宏)が3年7か月に及ぶヨーロッパ、カナダ武者修行から凱旋帰国したシリーズでもあります。

7月6日に新日本プロレスの新間寿営業本部長(モハメド・アリvs猪木戦の興行的損失の責任を取らされ、この前後に専務取締役から降格させられている)と上田の代理人である上村保氏が会談を持ち、上村氏は「上田は坂口と対戦したい訳ではない。挑戦状を出している相手はあくまで猪木」と主張したものの、如何せんフリーの立場では弱く、新間に押し切られ、「上田は新日本プロレスの8月5日、蔵前国技館大会に出場する。坂口征二と対戦する」ことで合意しています。

上田がフリーとは言え、団体の二股をかけることは当時では出来ず、国際プロレスのシリーズ参戦中に上田は新日本プロレスの誘いに応じてが引き抜かれたことになりました。

一方で、上田の8月5日新日本プロレス蔵前国技館大会殴り込みを聞いたS小林は「何がIWA世界王者だ。自分は国際プロレス時代、IWA世界ヘビー級王座のベルトを25回防衛している。猪木さん、坂口さんとやる前にまず自分と対戦し勝ってからものを言え!」と上田の迎撃に名乗りを上げ、猪木も「S小林がそういう気持ちになってくれたのは嬉しい」とS小林の申出を快諾。8月5日、蔵前国技館でS小林と上田のシングルマッチが内定しました。

前IWA世界ヘビー級王者、ラッシャー木村と上田のリターンマッチは7月28日、千葉県銚子市体育館で日本人同士としては異例とも言える金網デスマッチで行われました。このまま上田に勝ち逃げされて団体の看板ベルトを持って新日本プロレスのリングに上がられたら国際プロレスの面子は丸潰れ、2年前のS小林の離脱、猪木への挑戦に次ぐダメージを負いかねません。

「金網デスマッチの鬼」R木村は金網デスマッチでは無敗を誇っていましたが、上田も反日感情の強いテネシー州でヒールとして揉まれ、ギャラをピンハネしていたマネージャーのトージョー・ヤマモト(PYチャン)の腕を折って他地区に逃亡したという武勇伝を持つ男、日本プロレス時代からセメントの強さには定評があり、喧嘩マッチでの度胸と腕っぷしの強さで負けていません。

試合中、エキサイトした両者の乱戦に巻き込まれた阿部脩レフェリーが暴行されてダウン。金網で囲われたリング上はレフェリーなき無法地帯。サブレフェリーの前溝隆男がリングに入ろうと金網のドアを開けた瞬間、上田とR木村が金網から場外に出て乱闘。前溝レフェリーは金網に戻るよう再三呼び掛けましたが上田のセコンド、スーパー・アサシン(ロジャー・スミス)とR木村のセコンド、マイティ井上も加わっての乱闘が続き、17分48秒、没収試合となり、上田のタイトルも没収となりました。

国際プロレスではシリーズ最終戦の7月31日、埼玉県越谷市体育館で改めて上田とR木村の間で金網デスマッチによる王座決定戦を行うと発表。越谷大会はテレビ収録、TBSでは放送出来なかった金網デスマッチですが、東京12チャンネルではカメラアングルを工夫して放送していました。

上田のIWA世界ヘビー級王座没収を遠征先の熊本で聞いた猪木は「S小林vs上田戦は考え直す」とコメントしています。

7月30日、新日本プロレスの静岡県清水市鈴与記念体育館での控室でS小林は東京スポーツの桜井康雄記者の取材に応え、「僕の気持ちとしては上田がタイトルを持っていようが、いまいが対戦してみたい」とベルト保持の有無に関わらず対戦したいと胸の内を明かしました。

国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」最終戦、7月31日、越谷市体育館の試合前に上田は左腕を三角巾で吊って現れ「銚子のR木村との試合で腕を痛めた。その後も我慢して悪化した。残念だが今日の王座決定戦は棄権したい、代わりにSアサシンを指名する。頑張ってSアサシンにベルト取ってもらいたい」と王座決定戦の棄権を発表。

上田の棄権で王座決定戦はR木村とSアサシンの金網デスマッチにカード変更され、12分32秒、逆エビ固めでR木村が王座返り咲きを果たしていますが、R木村にとっては不本意な勝利だったと言えます。

上田は銚子大会の後、7月29日、群馬県藤岡市民体育館、7月30日、栃木県黒磯市公会堂と2試合普通に出ており、「我慢して悪化した」とは言っていますが、さすがに唐突すぎるキャンセルには違いありません。

IWA世界ヘビー級王座は国際プロレスの看板タイトル、団体を移る時は負けてベルトを置いていくのが業界のルールです。しかしR木村に負けたら、新日本プロレスヘジャンプ出来なくなってしまう。新日本プロレスは本気で上田にIWA世界ヘビー級のベルトを持ってくるように確信犯的に仕掛けた可能性は大きく、ベルト没収→負傷棄権というのがギリギリのラインだったかと思います。

【正解解説】77年12月、全日本プロレスの「世界オープン・タッグ選手権」で日本における地位を不動のものにした「テキサスブロンコ」テリー・ファンク。1944年6月30日インディアナ州ハモンド出身で初来日は70年7月の日本プロレス「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」に26歳で初来日。

来日第2戦の7月28日、横浜文化体育館で猪木とのシングル初対決が実現。(60分3本勝負)

1本目は11分、テリーがダブルアーム・スープレックス(ビル・ロビンソン式と違い、弧を描いて反らない投げ捨て式であり、テキサスブロンコ・スープレックスとも呼ばれた)から体固めで先制。

2本目は4分5秒、再びダブルアーム・スープレックス狙いに来たテリーを腰のバネを利して後方に投げ捨てるリバース・スープレックスから猪木が体固め
、決勝の3本目は4分16秒、猪木の反則勝ちとなり、2−1で猪木の勝利に終わりました。

この試合は8月10日のNET「ワールドプロレスリング」でノーカット放送されていますが、兄ドリー・ファンク・ジュニアと猪木は2度に亘るNWA世界ヘビー級選手権試合は60分フルタイムの名勝負として後世に語り継がれていますが、テリーとの試合はそれほど話題になっておらず、共に感情表現豊かでベビーフェイスとヒールの両サイドを併せ持つカリスマ同士の猪木とテリーは手が合わなかったかと思われます。

※対戦成績は196戦38勝158敗、勝率194。 
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