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2023年02月04日06:31

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週プロ流智美あの日あの時予想2021年総括(26)

第192戦、6月30日発売号●【予想】世紀の一戦、「ネイチャーボーイ」バディ・ロジャース、パット・オコーナー破りNWA世界ヘビー級王座を獲得(61年イリノイ州シカゴ・コミスキーパーク)【正解】タイガー・ジェット・シン、全日本プロレスに移籍報道(81年)

【予想解説】当初、私はこの日は4月14日発売号の予想の続編となる「日本プロレスの残党9人が全日本プロレスのリングに参戦」(73年全日本プロレス行田市民体育館)にしようと思いましたが、これは流さん採り上げないだろうと思い、却下、60年代のアメリカマット界で行われた歴史的一戦を予想しました。

我々が子供の頃から「世界最高峰」として頭に刷り込まれて来たNWA(ナショナル・レスリング・アライアンス、全米レスリング連盟)NWA発足以前のガス灯時代の1905年、フランク・ゴッチを初代王者としたものが長年「正史」として日本のマスコミによって書かれて来ましたが、後に1948年4月のNWA設立以後にオービル・ブラウンを初代とする変遷史も登場、実際には2パターンの歴代王者変遷史があります。

ただし、後者説を取ると「第49代世界王者、馬場」が成り立たなくなるので私は自分の発信するものについては便宜上、前者を使っています。

NWAは1948年4月、第二次世界大戦後のプロレス興行を復興させる為にアイオワ地区のプロモーターであるピンキー・ジョージが中心となり、ミズーリ州セントルイスのサム・マソニックやミネソタ州ミネアポリスのトニー・ステッカーら、5人のプロモーター達によって設立されました。「世界タイトルの認定」を行い認定された世界王者は加盟プロモーターのテリトリーを廻って防衛戦を行いプロモーターを潤わせることを目的としました。

NWA世界ヘビー級王座はOブラウンの後はルー・テーズ→ホイッパー・ビリー・ワトソン→テーズ→ディック・ハットン→オコーナーと移動しましたが、いずれも保守本流の正統派ばかりで、観客動員に陰りが見え始め、プロモーター達から集客力のあるショーマン派ヒールのロジャースをチャンピオンに、という声が上がりました。

ロジャースは1921年2月20日 ニュージャージー州ケムデン出身。猪木と同じ誕生日です。ニックネームは「ネイチャーボーイ」。出生時の本名はハーマン・ロード(Herman Gustav Rohde Jr.)。後年にリングネームのバディ・ロジャースを戸籍名としています。

少年時代からYMCAでレスリングを学び、17歳でデール・ブラザース・サーカスに入団、カーニバルレスラーとしてキャリアをスタートさせました。

戦前から戦後にかけて活躍したゴージャス・ジョージがアダプトされており、綺麗に整えられたブロンド・ヘアー、タオルを持っての入場、相手を焦らして空かし、巧みな反則を織り交ぜての試合は観客のヒートを買い、シカゴではトップヒールに君臨。

そして61年6月30日、シカゴのコミスキーパークでオコーナーに挑戦した試合は当時のプロレス観客動員新記録となる38,622人を集め、興行収益も当時のプロスポーツ興行のゲート収入記録を大きく塗り替える17万5,000ドルを稼ぎ出し、プロモーターのフレッド・コーラーはホクホク顔でした。

試合は60分3本勝負。1本目はロジャースがコーナーを背にし、オコーナーが突っ込んで来たところをカウンターのダブル・ブートから体固め、2本目はオコーナーがオコーナー・ロールと呼ばれる得意の後方回転エビ固めで返し、決勝の3本目はオコーナーがドロップキックを自爆、ロープに股間を打ち付けるアクシデントでダウン、そこをロジャースがすかさず体固めに押さえ込んでカウント3が入り、ロジャースが2−1で勝ってタイトルを獲得、第44代NWA世界ヘビー級王者に輝いています。

40歳での世界初戴冠は当時としては遅咲きだったと言えます。

ちなみに3本目のドロップキックを自爆して股間をロープに打ち付けて負けるというムーブは、ロジャースの大ファンであった馬場が自らも負ける時に好んで使い、弟子の鶴田にもしばしばこの動きをモチーフさせていました。
 
ロジャースは「ダーティー・チャンプ」の元祖となったヒール選手である。決め技の足4の字固め、 ロジャース・ストラートと呼ばれる気取った歩き方、レフェリーの陰で反則を繰り返す小ずるい動き、ピンチに陥ると「ノー、ノー」と許しを乞うたり、わざと反則負けを食らって王座を防衛したりなど、ニックネームの「ネイチャーボーイ」も含め、一連の所作はリック・フレアーに受け継がれています。

また、常に白タオルを持って入場するスタイルは、同じく長い間にダーティー・チャンプとしてAWA世界ヘビー級王者として活躍したニック・ボックウィンクルも模倣、後にカート・ヘニングに継承されました。

金髪の嫌味な伊達男系ヒールというキャラクターにおいては、フレアー以前にもジャッキー・ファーゴ、レイ・スティーブンス、バディ・コルトなどがロジャースのギミックを継承、ジミー&ジョニーのバリアント・ブラザーズ、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツのハリウッド・ブロンドスなどのタッグチームなどもそのスタイルを取り入れ、インスパイアされたプロレスラーの数は枚挙にいとまがありませんでした。

まさに世界のプロレス界を代表するアイコンレスラーだったと思います。

ロジャースは足4の字固めだけでなく、ドリルアホール・パイルドライバー、アトミック・ドロップ、フライング・ボディシザースドロップ(空中胴絞め落とし)などの大技も駆使、反則負けでは王座は移動しないというルールを利用して防衛を続け、観客のヒートを大きく買い、「最後はベルトは俺のもとにある」というスタイルを貫きました。

結局、未来日に終わりましたが、日本のプロレスマスコミを通して伝わってきた評価は「実力の伴わないショーマン派」というものでした。

それを裏付けるエピソードが日本で強さの象徴だったビル・ミラーとカール・ゴッチが控室で「俺達から逃げるな、挑戦を受けろ」と迫り、これを拒絶したロジャースが2人にリンチに遭い負傷したという有名な話です。

この話は62年8月31日、オハイオ州コロンバスの会場で起きていますが真相は以下の通りです。

ロジャースはコロンバスのアル・ハフトのプロモーションの株主、共同オーナーで、コロンバスに在住していましたが、世界王者になったことで天狗になり、NWA会長になっていたシカゴのコーラー、ニューヨークのビンス・マクマホン・シニア等の「稼げるテリトリー」に出場が偏り、他のNWAメンバーからクレームがつけられていました。

ハフトはロジャースにコロンバスで試合をするよう促し、防衛戦を行うことになりましたが、全米のスーパースターとなったロジャースは興行収益のパーセンテージやマッチメイクへ口を出し、ハフトとは不仲になっておりました。

ハフトはロジャースをプッシュしていたNWA会長のコーラーとも関係が悪くまたハフトは元々レスラー上がりのプロモーターでシューターとして鳴らしていた為か、ミラーやゴッチなどガチガチのシューターを好みとして重宝に使っていましたが、

見せるプロレスを重視するロジャースとは根本的に考えが合わず、ゴッチとミラーを「客の呼べないレスラー」と酷評して冷遇し、ロジャースが凱旋しても対戦相手や取り組みもロジャースが決定権を握っていたことから、ゴッチとミラーはカードから締め出されてしまっていました。
 
8月31日、この日の挑戦者は日本から修行に来ていた馬場。試合前のロジャースの控室にミラーとゴッチが現れた。2人が来場したのはハフトの意向で、ハフトが2人に入場券を送って呼び寄せたものでした。

ミラーとゴッチは試合から干されことをロジャースに抗議したものの、ロジャースは相手にせず2人を小馬鹿にしたような態度を取り続け、控室から出ようとしました。そこでミラーは横っ面に張り手を浴びせると、ゴッチがドアを蹴飛ばし、ロジャースがドアに左腕を挟まれてしまった。これでロジャースは負傷、馬場との防衛戦はドタキャンとなったということです。

ハフトにしてみれば少々焼きを入れて、ロジャースの天狗の鼻をへし折って、ロジャースに改心して欲しかったつもりでしたが、ロジャースを負傷させてしまい、目玉カードを失ったハフトは観客から払い戻しに応じざる得なくなり、却って損失を被る嵌めになりました。

ロジャースはただちにゴッチとミラーに対して賠償請求訴訟を起こしましたが、二人の黒幕はハフトであることを察知し、コロンバスを引き払ってハフトと絶縁しています。
  
ロジャースは翌63年1月4日、カナダ・トロントでテーズに敗れて王座転落後、自らのボスの1人であったビンス・シニアの新団体WWWF設立に協力、初代WWWF世界ヘビー級王者に認定されましたが、5月17日、MSGでブルーノ・サンマルチノに48秒、カナディアン・バックブリーカーで秒殺されて王座を失い、そのままレスラーとしては引退。

現役時代から心臓疾患に悩まされていましたが、78年に一時期復帰し若手時代のリック・フレアーと対戦し敗退しました。92年6月26日、地元のスーパーで転倒し頭部を強打し71歳で事故死、94年にはWWF殿堂入りを果たしています。 

【正解解説】81年5月8日、アブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス参戦表明に端を発した全日本プロレスと新日本プロレスの仁義なき引き抜き抗争ですが、ブッチャーに続き、全日本プロレス「第3の男」タイガー戸口が新日本プロレスへ移籍を発表。

これに対し新日本プロレスのトップヒール外国人レスラーだったタイガー・ジェット・シンが先ず全日本プロレスに抜き返されて移籍しています。

シンは来日前の5月2日、ニューヨーク州ロチェスターでのキラー・カーンとの試合で右足を骨折したアンドレ・ザ・ジャイアントの代打として「第4回MSGシリーズ」に5月12日、名取市民体育館大会から参戦。

そこで「ブッチャー新日本プロレス移籍」を初めて聞かされることになる訳です。

シンは猪木に反則勝ち、スタン・ハンセン、坂口征二に両者リングアウト、ハルク・ホーガンに反則負けで38点で公式戦を終了、猪木と並んで同点2位になりました。

1位は39点のハンセン。6月4日、蔵前国技館での優勝決定戦では、先ず2位同士の猪木とシンが決勝進出者決定戦で対戦し、勝者がハンセンと優勝決定戦で対戦することになりました。

猪木とシンの決勝進出者決定戦は60分1本勝負で争われ、18分35秒に両者リングアウトの引き分け、規定により再試合となりましたが、ランバージャックデスマッチ(時間無制限1本勝負)により行われることに。

再試合ではシンが猪木に急所攻撃を見舞い、これがレフェリーの目に止まって3分35秒に猪木の反則勝ち。辛くも猪木が決勝進出を果たしています。

優勝決定戦は1位ハンセンと2位猪木の対戦(時間無制限1本勝負)となり、既にシンと合計20分以上闘って体力を消耗した猪木が苦戦しながらも、7分45秒、場外乱闘から一足早くリングに生還した猪木が、エプロンに上がってきたハンセンにドロップキックを見舞い、ハンセンを場外に落としリングアウト勝ちを拾い優勝、4連覇を達成しました。

猪木が無名の存在から育て上げた自前のライバル、シンとハンセンをスッキリしない決着ながらも一夜にして連覇した価値ある優勝と言えますが、この年限りでシン、ハンセン共に全日本プロレスに行ってしまい、特に猪木とシンの8年超による対戦はこの試合が最後となりました。

シンは6月24日、蔵前国技館で行われる「創立10周年記念3大スーパーファイト」に来日が発表され、前80年12月13日、東京体育館での再戦、ハンセンと組んで猪木&ダスティ・ローデス組と対戦することになりましたが、まず、ローデスが6月21日、フロリダ州タンパでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦が決まり、レイス戦に専念したいと来日キャンセルを申し出。

レイスへの挑戦はこれまで何度もしていることから、これは「チャンピオンになり、サーキットをこなさなければならないから行けない」が正しい解釈だった訳です。

シンは6月23日に「トリニダードトバコの試合で負傷したので行けない」と新日本プロレスにキャンセルを伝達しました。シンはトリニダードトバコには行っておらず、当時、新日本プロレス以外では試合していなかったシンが来日をキャンセルするということは、全日本プロレスに移籍する以外には考えられませんでした。

7月2日、成田空港に到着したシンは全日本プロレスの百田義浩の運転する車で全日本プロレスの外国人レスラーの常宿だった銀座東急ホテルに向かっていますが、その時成田空港で待っていた新日本プロレスのミスター高橋が面会、「オールジャパンに行くのか?」との問に対し、シンは「ああ、俺は今もニュージャパンを愛している。だがもうニュージャパンには戻らない」と新日本プロレスとの訣別を宣言しています。もちろんこの件は当時は書かれていません。

そして翌7月3日は全日本プロレスが熊谷市民体育館で「サマー・アクション・シリーズ」開幕戦、新日本プロレスが後楽園ホールで「サマー・ファイト・シリーズ」開幕戦、果たしてシンはどちらに来るのか?と注目されました。私は新日本プロレスの後楽園ホールに行きましたがシンは思った通り現れず。

全日本プロレス熊谷大会メインイベント、馬場&鶴田組vsディック・スレーター&ビル・ロビンソン組の一戦にシンは辛子色の上着に黄色の棍棒を持って乱入しています。

流さんのコラムによると「ブッチャーがニュージャパンに来ると聞いて、俺はヤツのことが嫌いだったから自分から馬場に連絡した」と言っていたがおそらくこれが真相だろう、と書かれていましたが、「シンからの売込」というのは別の元「ゴング」にいた方からも同じニュアンスの話を聞いたことがあるのでおそらく事実でしょう。

ただ、ブッチャーが嫌い、というのが本当の理由ではないと思います。ブッチャーがシリーズに参加すれば、自分の呼ばれる回数は減る。

新間寿営業本部長は「もしシンがウチに残っていたら、ベビーフェイスに転向させて猪木とタッグを組ませるプランもあった」と語っていましたが、これはおそらく後付けでしょう。

シンは79年頃から試合用タイツに新日本プロレスのライオンマークの刺繍を付けていました。「ニュージャパンは俺と猪木でビッグカンパニーにした会社」というプライドの現れかと思います。その新日本プロレスに不要と言われたも同然であり、そのプライドを著しく傷つけられたことで行動に出たのではないでしょうか。
※対戦成績は192戦38勝154敗、勝率198。
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