第175戦、3月3日発売号●【予想】吉村道明引退試合vsルーベン・ファーレス(73年日本プロレス大阪・近大記念講堂)【正解】藤波辰巳凱旋帰国第1戦vsマスクド・カナディアン(78年新日本プロレス高崎市体育館)
参考としていた2021年の同一発売日だった2016年に関しては、閏年だった為、3月以降は曜日が異なっており、3月の第1水曜日は2日になります。よって2021年3月〜2022年2月までは過去の連載実績はありません。
今回、私の中では予想と正解の2つが最後まで候補として残り、吉村引退試合を選出しましたが、藤波凱旋試合の方は流さん以外でも書く人はいるだろうし、この先まだ書く機会は「あの日あの時」以外にもあるだろう、しかし吉村引退試合に関しては現役時代を知るライターはもはや僅少で、今後書かれるチャンスもあまりないだろうと思い予想し外しました。
【予想解説】「火の玉小僧」、「闘将」の異名でファンに愛された吉村道明は1926年9月19日、岐阜県岐阜市出身
大正の戦前生まれ、高等小学校を卒業後、14歳で旧大日本帝国海軍の志願兵となり、海軍通信学校普通科練習生を卒業、太平洋戦争に出征。シンガポール駐留中に海軍相撲で活躍、終戦後は機雷除去の仕事を1年間務めた後、トヨタ自動車に入社。
十分な教育が受けられぬまま戦争に行ったからと49年にトヨタ自動車を依願退職して22歳で近畿大学へ入学し相撲部に入部。他の学生達とは身体の出来が違っていたことから大学1年生で学生横綱となり、国民体育大会個人優勝など輝かしい実績を残しました。
大学卒業後はトヨタ自動車に再就職するも、54年4月、プロレスブームに乗り大阪を拠点として活動していた山口利夫主宰の全日本プロレス協会へ入団。56年に力道山の日本プロレスが団体統一に乗り出し全日本プロレス協会は活動休止となりますが、力道山にその実力を買われて57年5月に日本プロレスへ移籍する。移籍前の同年4月8日、初代王者の駿河海を下して日本ジュニア・ヘビー級王座を獲得。
日本プロレスへ移籍後は、外様ということもあり脇役のポジションに収まりましたが、軽快な身のこなしからの回転エビ固めなどの得意技で人気を博し、若手レスラーの壁としても活躍、デビュー間もない猪木との対戦成績は19連勝を記録しています。
61年にヘビー級へ転向し、力道山のパートナーとしてタッグを組む機会も増え、大柄の外国人レスラーに血だるまで立ち向かう姿から「火の玉小僧」と呼ばれ活躍。一人で相手の攻撃を受けまくる姿は、結果的に力道山をはじめとする歴代のエースのタッグ・パートナーを引き立たせる効果もあげていました。
61年5月1日、東京体育館では初来日のカール・クラウザー(ゴッチ)、の来日第1戦の対戦相手を勤め、クラウザーのジャーマン・スープレックスホールドを日本で初めて食らったことでも有名。(試合は45分3本勝負で1−1から時間切れ引き分け)
63年12月15日に力道山が暴漢に刺された傷が元で腸閉塞を起こし39歳という若さで急逝。窮地に立たされた日本プロレスは、豊登を社長とし、芳の里、遠藤幸吉と共に取締役に就任4人の幹部体制を敷き、日本テレビと博報堂が支援を継続したことで日本プロレスは存亡の危機を乗り切りました。しかし社長に就任した豊登が会社の資金をギャンブルに注ぎ込み、横領・放漫経営などで経営が悪化、65年末で豊登は除名・追放となりました。
66年からは芳の里が代表となり馬場をエースに新体制へと移行、日本プロレスを追放された豊登は海外武者修行中の猪木を口説き落として新団体東京プロレスを旗揚げするも直ぐに崩壊し猪木は67年4月に日本プロレス復帰を果たしました。
新社長となった芳の里と遠藤取締役は現役を引退して経営に専念したが、吉村は取締役を兼務しながら現役を続行、アジア・タッグ王座を豊登、馬場、猪木、大木金太郎、坂口征二をパートナーに長く保持し、68年頃は馬場、猪木、大木と共に「日本プロレス四天王」と呼ばれ、中心レスラーとして活躍しました。
しかし、日本プロレスは71年末に猪木が「会社乗っ取りを企てたクーデター犯」として除名・追放処分となり、翌年72年7月に馬場が日本テレビの支援もあり相次いで離脱、それぞれ新団体を設立、73年2月、残ったエースの坂口も「新・日本プロレス」計画が大木の反対により頓挫したことで猪木に合流する型で離脱を表明、これによりNET(テレビ朝日)が3月いっぱいで日本プロレスの中継打ち切り、新日本プロレスへの鞍替えを決定したことで、吉村も引退を決意しました。
73年3月3日、母校の近大記念講堂で夫人と長女が見守る中、引退試合を行いました。相手はメキシカンのファーレス、シングルマッチ30分1本勝負で16分14秒、得意の回転エビ固めでフォール勝ち。「ラバウル小唄」が流れる中、小沢正志(キラー・カーン)に肩車され、リング下を一周しプロレスラーを引退。この大会は日本プロレス史上初めての引退記念興行、および引退試合とされ、その模様は3月9日にNETの「日本プロ・レスリング中継」放送されました。その1か月半後の4月20日、日本プロレスは興行活動を停止しています。
引退後は母校近代相撲部監督として活躍、後の大関、朝潮の長岡末広を指導、プロレス界からは撤退、プロレスの会場にも姿を現すことはありませんでしたが98年4月4日、東京ドームで行われた猪木引退試合を観戦に訪れました。
03年2月16日、呼吸器不全の為76歳にて死去。
【正解解説】(前回と重複部分は割愛)藤波辰巳の凱旋帰国マッチはセミ前、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」の「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦の生中継の冒頭で放送されました。マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)とのシングルマッチ60分1本勝負。藤波はフード付ガウンで「ブルー・アイド・ソウル」(カール・ダグラス、全日本プロレスに上がっているビル・ロビンソンと同じ楽曲)のデーマ曲で入場。
1月23日、ニュヨークMSGでカルロス・ホセ・エストラーダをも破りWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得した時と同じフルネルソンからのスープレックス、ドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)で14分42秒に勝利を収めました。
ドラゴン・スープレックスホールドは、固められた相手の両肩がマットに上手くつかない技で、歳月を経て、投げる方も投げられる方も進歩し、両肩がマットに着いてカウントが入れられるようになりましたが、当時はまだ誰も慣れておらず、レフェリーはカウントを入れられないので、カナディアンの状態が危険と見做して試合終了のゴングを要請していました。
これは苦肉の策でしたが、ドラゴン・スープレックスの危険性を知らしめるには十分であり、かえってリアリティを産み出すことになった訳です。
藤波は、ベルトを獲得したエストラーダ戦後のテレビ朝日の勝利者インタビューで「レフェリーがギブアップ?」と聞いていたとコメントしていましたが、相手にギブアップの意思表示が出来るかは疑問です。
高崎大会でのカナディアン戦に勝利し、日本のリングで勝利者インタビューを受けた藤波は「アイ・ネバーギブアップ」と力強く宣言、ファンを虜にし、空席のドラゴンブームを巻き起こすことになります。
※対戦成績は175戦34勝141敗、勝率194。
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