76年新日本プロレスブラジル遠征シリーズ第2戦、8月11日(日本時間12日)、ブラジリア・メジシ大統領体育館(観衆6,000人発表)大会でストロング小林は2月まで新日本プロレスの留学生だったバーリトゥードの王者イワン・ゴメスと対戦しています。
当初ブラジリア大会ではS小林とウィリエム・ルスカの対戦が予定されていましたが、7日にリオデジャネイロで行われたルスカvsゴメス戦でのダーティファイトによりルスカはリオデジャネイロ体育協会から出場停止処分を受け、これを不満としてオランダに帰国してしまい、代替カードとして組まれたのがS小林とゴメスの一戦でした。
試合はダブル・メインイベントの第2試合、大会の最終試合としてバーリトゥード・ルールの60分1本勝負として行われました。
これより18年後の94年7月29日、千葉県浦安市東京ベイNKホールにて「バーリトゥード・ジャパン」の第1回興行が開催され、ヒクソン・グレイシーが試合としては初来日、翌95年4月20日、日本武道館での第2回興行でヒクソンがサブミッションアーツ・レスリングのプロレスラー、木村浩一郎を準決勝で破っていますが、日本人プロレスラーとして初めてバーリトゥードの選手とバーリトゥードルールで対戦したのがS小林だったという意外な事実にぶつかることになります。
S小林にとっては決して名誉な話ではありません。この大会は映像が残っておらず、私が所有している資料は「月刊プロレス」76年10月号のモノクログラビアと「東京スポーツ」だけです。(「週刊ファイト」は未購入、「ゴング」は掲載なし)当時の東スポからその時の試合経過を追ってみたいと思います。
S小林はスタートから強引な力攻め、クォーターネルソンからグイッとゴメスの頭を抱え込んでの強烈なヘッドロックからの揺さぶり、しかし、この瞬間、レフェリーは「ブレイク」とアピール、2人を離れさせた。
もう一度組み付くS小林ですがレフェリーはブレイクを命じる。どうやらこれはバーリトゥードルールのようだ。すっかり戸惑ったS小林の隙を突いてゴメスが手首の逆をグイッと決めた。バーリトゥード流の関節技だ。
怪力のS小林がたちまち跳ね返すと今度はバシッと脇腹へのチョップ攻撃。あのルスカもこの攻撃で腹が真っ赤に腫れ上がるダメージを負った程で威力がある。狙いすましたようにキドニー(腎臓)を打つので明らかな反則だが、レフェリーはアピール(注意)しない。
S小林が怒った。「よーし、それなら俺もやるぞ!」とばかり大きな(モーションでの)ナックルを振りかざしてのパンチ攻撃。見事に命中してゴメスはたまらずダウン。どうやらパンチのディフェンスは甘い。ここぞとばかり攻め込むS小林…。ここでまたも組み付くとたちまちブレイク。せっかくの上昇ムードに水をさされてS小林はガックリ。こうしたムードの中でズルズル押し込まれたS小林は11分過ぎ、不用意な攻めに出たところをクルリとひっくり返されて強引に首を決められてしまった。
巨体を揺すってもがくS小林はついにギブアップ。無念の涙を飲んだ。ガックリ肩をおとして引き揚げて来たS小林は「ルールにやられました」と力なく語っていた。
このブラジル遠征に東スポから特派員として同行しているのが「ファンタジープロレスの巨匠」桜井康雄記者と鈴木晧三カメラマンで、この記事を書いているのは桜井氏、論調でいけば、せっかくS小林がプロレスの組み合いにいこうとしている時に、レフェリーが謎のブレイクを命じ、動きを止められてしまい戸惑っているところにゴメスに首を決められてしまった。ルールが理解出来ず、不運の負けを喫したという感じです。
一方で「月刊プロレス」76年10月号のモノクログラビアでは「S小林、『前座』のIゴメスに苦杯を喫す」と4ページに亘りこの試合を掲載、この写真を見ると東スポの試合レポートにないシーンも出てきます。ゴメスはオープンハンド(掌底)による打撃でS小林の顔面を狙いにいっており、S小林は両腕でガードしながら顔を背け、目をつぶっており、嫌がっているのがわかります。
ゴメスが倒れたS小林にキックを浴びせている写真やS小林が猪木がモハメド・アリ戦で使ったことで一躍脚光を浴びたローキック(アリキック)を使っている写真等もありますが、実際は勝敗は地元のゴメスのアップ(勝ち)でS小林が譲った試合だったでしょう。バーリトゥードルールとはいえ、マッチメイク上の勝敗は決まっており、日本では新日本プロレスの前座に過ぎなかったゴメスが「ビッグ3」の一人で、北米タッグ、アジア・タッグの二冠王者だったS小林に勝ってしまう、というのは何かしらフロック勝ちの要因を付加しないと日本に報道出来なかったと考えます。
試合結果は11分24秒、首固め(フロントネックロック、スモールパッケージホールドではない)でゴメスの勝利となりました。
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