スカル・マーフィは70年3月23日、遠征先のノースカロライナ州シャーロッテで心臓発作により39歳の若さで急死、しかし、マーフィは生前、全身無毛の自分の容姿に深い悩みを抱えていたと言われ、(日本では子供の頃に猩紅熱に罹り全身の毛が抜けてしまったと言われている。)衝動的に睡眠薬を過剰摂取しての自殺、あるいはピストル自殺とも言われています。
マーフィ死後の70年7月、日本プロレス「第2次ゴールデン・シリーズ」&「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」へ3度目の来日を果たし、同じくマーフィの盟友(力道山時代の62年9月、マーフィが初来日した時一緒だった。)であるムース・ショーラックをパートナーに、8月1日の熊本市体育館で馬場&猪木組のBI砲のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。
1本目は22分25秒、両チームリングアウト、2本目は3分25秒、猪木がショーラックを体固めで破り、2−1で馬場&猪木組のBI砲が9度目の防衛に成功。このシリーズも終盤1週間が「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」で、NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニア(2度目の来日)と実弟のテリー・ファンク(初来日)のザ・ファンクスが特別参加していますが、ファンクスが来るまではバーナードがエース外国人でした。
帰国後、70年後半からはマーフィの遺志を継いで、ノースカロライナ州を中心としたNWAミッドアトランティック地区を主戦場に活動。71年10月12日、ミズーリ・モーラー(ロッキー・ハミルトン)と組んでジョニー・ウェーバー&ジョージ・ベッカー組を破り、NWA大西洋岸タッグ王座を獲得。73年11月26日には "ジ・アラスカン" ジェイ・ヨークと組んでネルソン・ロイヤル&サンディ・スコット組からNWAミッドアトランティック・タッグ王座を奪取し、ジン&オレイのアンダーソン兄弟のユニット、ミネソタ・レッキング・クルーともタイトルを争いました。来日直前の74年12月には、当時まだグリーンボーイだったリック・フレアーとのコンビでNWAミッドアトランティック・タッグ王座に戴冠していたリップ・ホークが負傷欠場した際には、ホークに代わりフレアーのパートナーとなってタイトルマッチに出場したこともありました。
前置きが長くなりましたが、バーナードは1月31日、岡山武道館で新日本プロレス初登場第1戦を行っています。メインイベントでピート・ロバーツとタッグを組んで、坂口征二&木戸修組と対戦、圧倒的な強さを見せ、1本目は13分23秒、2本目は2分38秒、いずれもバーナードが木戸から体固めで2本取り、バーナード&ロバーツ組が2−0のストレート勝ちを収めました。
バーナードはその前のセミファイナル、猪木とカナディアン・ワイルドマンのシングルマッチにも乱入し、10分28秒、猪木の反則勝ちとなっていますが、バーナードとワイルドマンは同じ怪奇・野獣派ということで結託。
当時の東京スポーツとNET「ワールドプロレスリング」では、バーナード&ワイルドマンを「猪木に復讐を迫るタイガー・ジェット・シンが送り込んだ刺客」として報じました。
前74年6月26日、大阪府立体育会館で猪木に右腕を骨折させられ、新日本プロレスから「永久追放」されたシンは怒りに燃えて猪木にリベンジを果たす為に日本再上陸を画策、NWF本部に手を回し、NWF世界ヘビー級王座挑戦の約束を取り付けました。
シンは次期「ビッグ・ファイト・シリーズ」に殴り込みを予告、バーナードとワイルドマンは猪木にダメージを与える為にシンが差し向けた刺客だったということです。
ストロング小林はスティーブ・ライトを6分28秒、カナディアン・バックブリーカーでギブアップさせ、星野勘太郎とコーリン・ジョイソンのシングルマッチは7分24秒、エビ固めでジョイソンの勝利。ウラカン・ラミレスは藤波辰巳を8分4秒、エビ固めでフォールしています。
ベニー&ビリーのマクガイヤー・ブラザーズはこの日は生中継の前に試合が組まれ、山本小鉄&柴田勝久&荒川誠(真、ドン)組と2対3ハンディキャップマッチで対戦、4分17秒にビリーが荒川を体固めで押さえました。
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