73年国際プロレス夏の陣「ビッグ・サマー・シリーズ」は6月18日、千葉県市原市臨海体育館(テレビ収録、観衆3,000人発表)で開幕。
チームとしては日本初登場となるダスティ・ローデス&ディック・マードック組のテキサス・ジ・アウトローズ、スカンドル・アクバ、バディ・ウォルフ(レス・ウォルフ、ブルー・ディモン)、そして後にプロレス界の頂点に立ち「プロレス界の人間国宝」と言われるまでになったリック・フレアーの外国人選手が参加。
ローデスは71年10月に次いで2度目の来日、マードックは72年3月、日本プロレスの「第14回ワールド・リーグ戦」以来1年3か月ぶりの来日で、国際プロレスには初登場、この時期、アウトローズはAWAを主戦場にしており、揃って国際プロレスに参戦となりました。
日本側はネブラスカ州オマハ、ディック・ザ・ブルーザーが主宰しているインディアナ州インディアナポリス版WWAでの海外武者修行から帰国したアニマル浜口と、テネシー地区での修行から帰国した松本勝三(大位山)がシリーズ参戦、先のシリーズで欧州から帰国したラッシャー木村、大磯武に続く凱旋で、国際プロレスの日本人メンバーは充実していきました。
開幕戦ではストロング小林&木村組がローデス&マードック組のアウトローズと対戦、1本目は6分11秒、マードックが小林を体固め、2本目は5分46秒、小林がマードックを片エビ固め、決勝の3本目はアウトローズが暴走し、5分21秒、日本組の反則勝ちとなり2−1で小林&木村組が辛勝しています。
セミファイナルはグレート草津とアクバがシングルマッチ45分3本勝負で対戦、アクバは当時全米に何人か存在したザ・シークのコピー的なアラビアンギミックレスラーの一人ですが、1934年テキサス州生まれのアメリカ人。70年1月、日本プロレスに初来日して以来約3年半ぶり2度目の来日。
1本目は15分56秒、アクバが体固め、2本目は2分45秒、草津がアバラ折り(コブラツイスト)、3本目は6分20秒、草津が足4の字固めでいずれもギブアップ技で草津が連取、2−1で草津が勝ちましたが、2本共にギブアップ技を持ってくるというのはセンスのなさを感じさせます。
凱旋帰国の浜口はアメリカで親友になったというウォルフと30分時間切れ引き分け。ウォルフはこの年WWWFに進出、モンスター・ロシモフ改め「世界の八番目の不思議」大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントのニューヨークMSG初登場(3月26日)の対戦相手を務め、9秒で敗れて「いい仕事」をしてみせました。
フレアーの初来日第1戦は同じく外国人の松本とのシングルマッチで10分20秒、反則勝ち。全体的にぽっちゃり体型でクルーカット、ローデスの子分格みたいな感じでした。日本人選手の層が厚くなった事で日本人同士の好カードも組まれ、マイティ井上と大磯武が20分時間切れ引き分け。
第2戦、6月19日、茨城県笠間市民体育館(テレビ収録、観衆4,000人満員発表)大会。メインイベントは小林のIWA世界ヘビー級王座にローデスが挑戦。両者のタイトル戦は71年12月12日、埼玉県飯能市体育館で小林が2−0のストレート勝ちをして以来です。
1本目は10分7秒、小林の反則勝ち、2本目は僅か57秒、ローデスが体固め、決勝の3本目は4分20秒、小林が体固めで勝ち、22度目の防衛に成功。馬場の持っていたインターナショナル王座防衛日本記録21回を抜き、日本記録を更新しました。
小林の次期防衛戦は、6月29日、愛知県半田市民ホールでアウトローズの片割れ、マードックが挑戦することが決まっていましたが…。試合終了後、この日の試合を終えた木村がリングに登場、マイクを持って自筆(書いたのはおそらく吉原功社長)の挑戦状を読み上げました。
「私は小林選手の世界選手権に挑戦したく、ここに挑戦を表明します。」言葉少なに小林への挑戦表明をするとリングを降りて、テレビ解説をしていた吉原社長の元へ。木村「社長、やらせて下さい」吉原社長「考えてみるよ。」
実況の新村尚久アナウンサーは「さあ、大変なことになりました!日本人同士の世界選手権、実現の可能性はあるのでしょうか?」とエキサイトして早口になり煽りまくりました。吉原社長「やらなければならない時期に来たんではないでしょうか。日本人同士の対戦は八百長とか遺恨試合になるとか言われますが、小林と木村なら純粋に勝負してくれると思います。」と既に開催には乗り気。
ここで言う「八百長」「遺恨」とはこれより18年半前の54年12月22日、日本プロレス蔵前国技館における力道山vs木村政彦の日本重量級選手権試合、力道山が「木村が急所を狙って蹴ってきた。」ことに対する報復措置として木村の顔面に張り手を連発、ダウンした後も顔面を蹴りまくり、戦意喪失した木村が15分49秒、レフェリーストップで敗れ、2本目は試合放棄となり、力道山が2−0のストレート勝ち。後味の悪い結果になりました。
しばらくして木村サイドから「力道山との試合は3回やる予定だった。東京と熊本(木村の地元)、大阪でやり、最初は引き分け、熊本では私が勝ち、最後は力道山に花を持たせるつもりで、力道山はOKと言ったが約束を反故にした」と事前の取り決めがあったと暴露。以来、翌55年1月26日、大阪府立体育会館での力道山と旧全日本プロレスの山口利夫戦(2−0で力道山の勝利)を最後に日本人トップレスラー同士の対戦は行われず。
このことを吉原社長は言っていたのです。さらに「木村がやる気が出して来てくれたことが嬉しい。やるのなら2人の為に大きな会場を用意してやりたい。と嬉しさを隠し切れない様子でした。
笠間大会セミファイナルは草津とウォルフのシングルマッチ60分3本勝負。1本目は16分34秒、ウォルフが体固め、2本目は3分42秒、草津がアバラ折り(コブラツイスト)、決勝の3本目は3分30秒、草津がエビ固めで連取し、2−1で草津が勝利を収めています。
この日木村はフレアーと対戦し、14分25秒、体固めでフォール勝ち、浜口&松本組とマードック&アクバ組は15分45秒、松本がアクバを体固めで撃破。井上&田中組vs寺西&大磯組は20分時間切れ引き分けとなりました。
ログインしてコメントを確認・投稿する