72年国際プロレス「ダイナマイト・シリーズ」9月14日、富山市体育館(観衆5,300人超満員発表)大会。メインイベントではストロング小林が金網デスマッチに登場しバディ・オースチンと対戦、24分20秒の激闘の末、カウントアウト勝ちで狂犬オースチンを撃破しました。
セミファイナルは先の「ビッグ・サマー・シリーズ」で凱旋帰国したグレート草津と田中忠治がタッグを結成しビル・ロビンソン&ベンジー・ラミレス組と対戦。1本目は16分43秒、草津がロビンソンを逆さ押さえ込みでフォールし先制、2本目は7分10秒、ロビンソンが草津を体固め、決勝の3本目は5分55秒、田中がラミレスを体固めで破り、2−1で草津&田中組が勝利を収めています。
ここでお気づきになった方も多いと思いますが、前回書きました9月12日の船橋ヘルスセンターローラースケート場でのシリーズ開幕戦でも、草津はロビンソンと1−1から45分時間切れ引き分け。海外遠征前には全く歯が立たず、70年の「ワールド・チャンピオン・シリーズ」(第2回IWAワールド・シリーズ)ではロビンソンに全敗の草津がロビンソンと互角の対戦成績を残しています。
ロビンソンはこのシリーズ、9月28日、北九州市小倉区三萩野体育館で小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦が決定していますが、団体のエースとのタイトルマッチ本番前に草津とフォールを取ったり取られたりしていては興味も半減というもの。
小林の国際プロレス退団の経緯が当初は新日本プロレスの国際プロレス潰しの為の引き抜きと言われていましたが近年になってその前段として小林と草津の間に確執があったことはもはや周知の事実としてファンの間でも定着してきました。
また順を追って書いていきますが、それが顕在化してくるのが翌73年と言われています。しかし、この年に凱旋帰国した草津の心の中には「自分はチャンピオンである小林と同格」という気持ちが生まれたのではないかと思います。
ビル・ドロモは寺西勇とシングルマッチで対戦し14分56秒、片エビ固めでフォール勝ち、大剛鉄之介はバッファロー・ザリノフに17分54秒、反則勝ち、リック・フェララは本郷篤を14分52秒、体固めで破りました。
9月15日、兵庫県の淡路島にある洲本市スポーツセンター(観衆1,000人発表)大会。メインイベントは草津&寺西&大剛組とBオースチン&ドロモ&フェララ組が対戦する6人タッグマッチ。
1本目は17分26秒、オースチンが草津を体固め、2本目は8分55秒、寺西がフェララを体固め、決勝の3本目は7分18秒、草津がオースチンを足4の字固めでギブアップさせて2−1で草津&寺西&大剛組が勝利を飾りました。
セミファイナルは9月28日、小倉大会のIWA世界ヘビー級選手権試合の前哨戦、小林とロビンソンがシングルマッチ45分3本勝負で対戦、1本目は19分57秒、小林が逆エビ固め、2本目は12分50秒、ロビンソンが体固め、決勝の3本目は45分時間切れとなり、1−1のドローに終わっています。
田中とザリノフのシングルマッチは12分52秒、両者リングアウトの引き分け、ラミレスは羮成英を14分52秒、体固めで降しました。
さて、日本プロレスに辞表を出し、独立記者会見を行った馬場ですが、会見を行った7月29日は日本プロレスの「サマー・ビッグ・シリーズ」開幕戦の次の日で、シリーズは始まったばかり。馬場は「興行を買ってくれたプロモーターに迷惑はかけられない」と最終戦の8月18日、宮城県石巻市総合グラウンド大会まで出場。
9月9日、馬場は東京・赤坂のプリンスホテル「有明の間」で記者会見を行い、新団体「全日本プロレス」の設立を発表。運営法人は全日本プロ・レスリング株式会社、代表取締役は馬場正平。資本金は4,000万円、本店所在地は東京都港区六本木7丁目3番12号のインターナショナル・ビルディング。
旗揚げ前夜祭を10月21日町田市体育館、旗揚げ興行を翌10月22、日大講堂で行ない、シリーズは3週間15大会を開催予定。外国人選手は交渉中で後日発表。所属日本人選手は馬場、大熊元司、マシオ駒、轡田友継、佐藤昭夫の5人が決定。
日本テレビでは、10月7日から「全日本プロレス中継」を毎週土曜日午後8時から放送を開始。旗揚げ戦前の7日と14日は海外から馬場の試合を放送、21日から本格的に試合中継をスタートすると発表、9月10日、馬場は日本テレビの原章プロデューサーを伴い外国人選手との契約の為渡米しています。
9月17日に帰国した馬場は、18日午後、東京・赤坂プリンスホテル「有明の間」で記者会見を行い、旗揚げ「ジャイアント・シリーズ」の日程、参加外人選手と所属選手を発表しました。
所属選手は9日に発表された5名に、国際プロレスから移籍が決定したサンダー杉山、引退していた元日本プロレスの藤井誠之が加わり7名となっています。
会見に同席した国際プロレス吉原功社長は「杉山は円満退社による移籍。要請があれば、シリーズ毎に国際プロレスの若手選手を貸し出す。」と発言。馬場も「国際プロレスさんとは、今後も交流を深めていきたい。」と語っています。
先の「ビッグ・サマー・シリーズ」で「スズケン」の観光部長に就任し限定試合出場となっていた杉山はこの「ダイナマイト・シリーズ」で1試合いくらの契約になっていました。他に収入があったことで他のレスラーから妬みの目で見られていたのも事実でした。
日本人選手が不足していた全日本プロレスにとっては杉山の存在は魅力でした。64年東京五輪アマレスグレコローマンスタイル日本代表に裏打ちされた実力タレントとしても活躍とネームバリューがありTBS系のJNNネットワークが強かった地方では顔も売れていたところから、どうしても欲しかった人材で、馬場がスズケンの社長と吉原社長に筋を通してフルタイマーレスラーとして杉山と契約しています。
この移籍は金銭トレードと言われており、馬場と日本テレビからトレードマネーが吉原社長のところに入ったのはほぼ間違いないところでしょう。
全日本プロレス移籍でスズケンを杉山が辞めることにはならなかったです。
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