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2021年01月26日22:32

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週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(20)

第136戦 5月27日発売号●【予想】天龍と同一シリーズに帰国、明暗分けた凱旋マッチ、鶴田&羽田光男組vsバロン・フォン・ラシク&マリオ・ミラノ組(77年全日本プロレス福生市民体育館)【正解】ビンス・マクマホン・シニア死去(84年フロリダ州)【参考】2015年5月27日発売号はインターナショナル選手権試合、馬場vsフリッツ・フォン・エリック(67年日本プロレス広島県立体育館)

【解説】羽田光男は48年9月12日北海道厚真郡出身、大相撲花籠部屋から72年1月に日本プロレスに入門、日本プロレス崩壊後は「日プロ残党の1人」として馬場の全日本プロレスに移籍。75年にアメリカ修行に出発、ミツオ・ハタのリングネームでミズーリ、カンザスと言ったセントラルステーツ地区をサーキット。77年5月の「NWAチャンピオン・シリーズ」に2年ぶりに凱旋帰国。

羽田は開幕戦から出場していますが、同じシリーズの終盤戦、6月11日、世田谷区立総合体育館大会から前76年10月に大相撲二所ノ関部屋の幕内力士から全日本プロレス入りした天龍が凱旋帰国することになっていました。

プロパーと外様、幕内と幕下の違いはありましたが、ファンや関係者、マスコミににはどうしても比較対象として見られてしまうのはやむを得ないところです。

羽田は開幕戦で鶴田と組んでテレビマッチのメインイベントに出場、「妖獣」バロン・フォン・ラシク&「イタリアの虎鮫」マリオ・ミラノ組と対戦、前半戦のエースだったラシクはこの年の3月20日、ノースカロライナ州グリーンズボロで馬場のPWFヘビー級王座に挑戦して2−1で敗れ、今度は鶴田のUNヘビー級王座にターゲットを変えて、5月30日、札幌中島スポーツセンターでの同王座挑戦が決まっていました。

1本目、アシストに入った鶴田のジャンピング・ニーパットがミラノの顎にヒット、羽田がブレーンバスターを決めて8分49秒に羽田がミラノを体固めに決めて先制のフォール勝ち。

しかし、羽田が良かったのはここまで。2本目は4分5秒、ミラノが得意のジャンピング・パイルドライバーからの体固めで羽田をフォールして返し、決勝の3本目はラシクがブレーンクローで羽田を血ダルマにし、レフェリーが制止に入ってもラシクはクローを離さず、3分50秒、日本組の反則勝ち。スコアの上では2−1で鶴田&羽田組が勝ちましたが、内容では羽田がラシクにいいようにやられてしまいました。

テキサス州アマリロのドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスの元での約半年間の修行を終え、天龍が帰国、6月11日の世田谷大会における凱旋マッチではセミファイナルで馬場と組んでミラノ&メヒコ・グランデ組と対戦、12分9秒、天龍が師匠テリー譲りのローリング・クレイドル(揺り椅子固め)でグランデを破りました。まさに明暗を分けた感じです。

羽田は次の7月8日、後楽園ホールで開幕した「サマー・アクション・シリーズ」から「ロッキー羽田」に改名、この年、日本でも封切られたシルベスター・スタローン主演の映画「ロッキー」に因んでのもので、キャッチフレーズも「和製アメリカンドリーム」というスケールの大きなものでした。

天龍と羽田は「ハンサム・フレッシュコンビ」としてタッグを結成、9月9日、後楽園ホールではグレート小鹿&大熊元司組の保持するアジア・タッグ王座に挑戦し、1−1から60分時間切れ引き分けの好勝負を展開、12月2日、後楽園ホールで開幕した「世界オープン・タッグ選手権」にエントリーしましたが、マイティ井上&高千穂明久組と時間切れ引き分けの1点のみにとどまり、後は全敗に終わっています。

天龍はその後、2度のアメリカマット再修行を経て81年5月に凱旋帰国を果たしてからは日本に定着、第3の男としてインターナショナル・タッグ、UNヘビー級王座を獲得、長州力以下ジャパンプロレス勢の迎撃、長州らが去った後は天龍同盟として全日本プロレスを牽引し一大スターとなりましたが、

羽田は内臓疾患での欠場もありアジア・タッグ王者にすらなれず、ジャパンプロレス勢参戦により人員整理的に試合数も減少、87年10月6日、日本武道館では引退試合もせずにセレモニーのみ行い、91年10月27日、糖尿病の悪化に起因した腎不全の為に43歳の若さで亡くなっています。

新日本プロレスの発展に多大な貢献をした外国人プロモーターと言えば、ニューヨークMSGを牛耳っていたWWFのビンス・マクマホン・シニア(ビンセント・ジェームス・マクマホン)であることは言うまでもないところです。

ビンス・シニアは父であり、ニューヨークでプロレスとプロボクシングのプロモーターをしていたジェス・マクマホンの後を受け、ニューヨーク一帯でNWAのプロモーターとして活躍、アントニオ・ロッカをエースに人気テリトリーとして隆盛を誇りましたが、イリノイ州シカゴのフレッド・コーラーと共にNWA会長であったサム・マソニックと対立し63年にNWAを脱退。

WWWFを設立し、同年5月17日、MSGで初代世界ヘビー級王者バティ・ロジャースを48秒でカナディアン・バックブリーカーでギブアップさせたブルーノ・サンマルチノが王者となり、黄金時代を築き上げました。

サンマルチノは腰痛が悪化、71年1月18日、イワン・コロフに敗れ王座転落、2月8日にペドロ・モラレスがコロフを破り王者となりましたが、徐々に観客動員は低下。

ビンス・シニアは窮地を打破する為にマソニックと和解、72年8月のNWA総会でNWAに復帰を果たします。この時にWWWF世界ヘビー級王座から「世界」の2文字を削除しました。

73年12月1日にはスタン・スタージャックにモラレスは敗れ王座転落、10日後の12月10日にはサンマルチノがスタージャックを降し王座返り咲き。第二次サンマルチノ政権がスタート。

新日本プロレスとのつながりは翌74年2月にアンドレ・ザ・ジャイアントをブッキングしたことで始まり、同年5月8日、東京体育館で行われた第1回ワールド・リーグ戦優勝決定戦に立会人として来日しています。

76年のモハメド・アリvs猪木戦の際にはプロレス側のコーディネーターとして猪木に全面協力、アリvs猪木戦の行われた6月26日昼、現地時間25日夜にはニューヨーク・センチュリー・シェアスタジアムでビッグマッチを開催。

サンマルチノ王者時代にはサンマルチノと馬場の友好関係から新日本プロレス行きを拒否されていましたが77年4月30日、メリーランド州ボルチモアでスーパースター・ビリー・グラハムがサンマルチノを破って王者になると翌78年2月には王者グラハムが新日本プロレスに来日、2月8日、日本武道館で坂口征二の挑戦を受けて19分33秒、リングアウト勝ちで坂口を退けました。

そのグラハムも帰国直後の2月20日、MSGでボブ・バックランドに敗れベルト移動、バックランドが王者になってからは年に複数回新日本プロレスのリングに来日するようになり、ワールド・リーグ戦に代わって春の本場所も「MSGシリーズ」にリニューアル。ビンス・シニアも度々、立会人として新日本プロレスに来日するようになりました。

また、78年1月23日にはMSGで藤波辰巳がカルロス・ホセ・エストラーダを初公開のフルネルソンから後方に投げて固めるドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)で撃破、WWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得、ドラゴンブームを巻き起こしました。同年12月には猪木が一連の異種格闘技戦の功績を讃えられ、格闘技世界ヘビー級のベルトが贈呈されています。

79年3月にはWWFに改称、前年死去したウィリー・ギルゼンバーグ会長の後任に新間寿営業本部長が会長に就任するなど蜜月関係は続きました。

同年11月30日、徳島市立体育館で猪木がバックランドを28分16秒、バックドロップからの体固めで破り日本人初のWWFヘビー級王者となりました。12月6日、蔵前国技館での初防衛戦ではリングサイドに姿を現したタイガー・ジェット・シンに気を取られた(徳島でも登場)猪木が背中を向け、背後からバックランドがアトミックドロップの要領で猪木を持ち上げ、トップロープに急所を打ち付ける反則攻撃からフォールの体勢へ。

レフェリーのレッドシューズ・ドゥーガンはカウント3を数えましたが立会人の新間会長はバックランドの故意の急所攻撃は反則であると主張、27分19秒、無効試合となり、猪木は現状のままベルト移動なしとなりましたがこれを潔しとせず王座返上。12月17日、バックランドはボビー・ダンカンを王座決定戦で破り王座返り咲きを果たしています。

80年に入ってからは春のMSGシリーズに加え暮に「MSGタッグ・リーグ戦」もスタート、83年5月の第1回のIWGPにもビンス・シニアは立会人として来日しましたが、既にこの時は病魔に冒されており、同年11月の「第4回MSGタッグ・リーグ戦」に立会人として来日したのが最後の来日となりました。

体調不良のビンス・シニアに代わり、WWFの運営会社であるキャピタル・レスリング・コーポレーションの株式は共同オーナーだったゴリラ・モンスーン、フィル・ザコ(フィラデルフィアのプロモーター)の分も含めて息子であるビンス・マクマホン(ビンセント・ケネディ・マクマホン)と妻のリンダが全部買い取り、コネチカット州スタンフォードにタイタンスポーツ社を設立、全米制圧に向けてスタートを切ります。

83年12月26日、MSGでバックランドはアイアン・シークに敗れ王座転落、通算5年10か月の長期政権にピリオドが打たれ、84年1月23日にはハルク・ホーガンが8分52秒、ギロチンドロップからの体固めでIシークを破り王座獲得。「ハルカマニア」時代が到来することになります。

ビンス・シニアは新日本プロレスを退職した新間が中心になって設立に動いていた新団体UWFに協力するというニュースも流れ、3月25日のMSGでは新団体UWFのエースと目された前田日明がピエール・ラファエルをコブラツイストで破りUWF版の新設WWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得歯ていますがビンス・シニアの協力はそこまで。

食道癌の為にフロリダ州の病院で亡くなっています。享年69歳。ビンス死去の日付ですが84年当時は5月27日と報じられましたが、後日発売された文献には5月24日とされている(ウィキペディアは24日を採用)ものもあります。

※対戦成績は136戦29勝107敗、勝率213。
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