97年8月15日、JWP広島アステールプラザで行われたプラム麻里子&コマンド・ボリショイ組と尾崎魔弓&天野理恵子組の試合で、尾崎のライガーボムを食らってフォール負けしたプラムは後頭部を強打して動けなくなってしまい、救急車で広島市内の病院に搬送されました。
緊急開頭手術が行われ、成功しましたが翌16日になって容態が急変、急性硬膜下出血及び脳挫傷で死亡しました。享年29歳。54年に日本初のプロレス国際試合が開始されて以来43年にして初めてのリング禍が起きてしまいました。
プラムは頭痛に悩まされていたとは言え、プロレスラーは頭部、首の打撲は日常的であり、無理して試合に出場せざるを得ない状況にありました。また、大技もどんどん過激になっていきました。この後、門恵美子、福田雅一、そして09年6月13日には日本を代表するプロレスラー、三沢光晴が同じ広島でリング禍により命を落とすことになります。
インターネットがまだ今ほど普及していない時代で、私はプラム死亡の翌8月17日、JWPの後楽園ホール昼夜興行を観戦しに行きましたが、昼興行の開始前に千葉道也リングアナから訃報を聞くことになりました。
全日本女子プロレス編でも書きましたが、JWP後楽園昼夜興行の3日後の8月20日に行われた全女日本武道館大会でアジャ・コング、井上京子らが全女退団を発表、選手が2派に分裂し全女の経営悪化が表面化、全女は取引金融機関から2度の不渡りを出して銀行取引停止処分を受け、事実上の倒産。以後は現金商売にて営業を継続していました。
業界のリーダーだった全女の地盤沈下は他の団体にも大きな影を落とし、女子プロレス人気は低下、JWPは生き残りを賭けてジャパン女子プロレスから分裂したもう一つの団体であるLLPWとの対抗戦開催に打って出ました。
元々、一緒にやってはいけない派閥が起こした団体同士でありJWPの山本雅俊代表とLLPWの風間ルミ代表はソリが合わず、全女を中心とした対抗戦でも両団体の直接対決がないようにマッチメイクは配慮されていました。経営が苦しいのはLLPWも同じで背に腹は代えられず。
97年12月6日、横浜文化体育館で行われた「J−HOLY BATTLE横浜97」(観衆3,900人発表)でJWPとLLPWの対抗戦が行なわれましたがそれでも満員にはなりませんでした。私はこの興行は生観戦しています。
メインイベントはJWP認定無差別級選手権試合、福岡晶に紅夜叉が挑戦、19分36秒、ムーンサルト式ダイビング・フットスタンプからの片エビ固めで福岡が勝ち、王座防衛に成功。
セミファイナルはダイナマイト関西&本谷香名子組と神取忍&遠藤美月組の対戦、関西と神取、ジャパン女子プロレス以来の顔合わせとなりましたが、危険なシーンは見られず、18分19秒、関西が左ハイキックからの片エビ固めで遠藤を破り、対抗戦はJWPの2戦2勝でした。
デビル雅美はガイアジャパンの広田紗久良(さくら)を6分57秒、腕ひしぎ逆十字固めでギブアップさせました。前回書きました96年8月12、13日の全女日本武道館2連戦「ディスカバー・ニューヒロイン〜真夏の夜の武道館〜」でデビューした広田ですが、「驚異の一期生」と言われた植松寿絵、里村明衣子、シュガー佐藤、永島千佳世、加藤園子の5人のレベルが高すぎてそれ以降の選手が育たたない状況で、コミカルファイトに活路を見出し、結婚、出産を経て現在も試合をしているのは大したものだと思います。
冬木軍プロモーションより邪道&外道が参戦、男女混合ミックスド・タッグマッチ、久住智子&邪道組vs宮口知子&外道組という面白いカードが実現しました。11分51秒、久住が雪崩式後方回転エビ固めで宮口を撃破しています。久住はこの他にも雪崩式回転足折り固めも使っており、94〜95年デビュー組の中では飛び抜けた存在となりました。
キューティー鈴木&市来貴代子(フリー)組vsコマンド・ボリショイ&Cooga(Jd’)組のマスクウーマンチームの対戦は13分38秒、ボリショイが雪崩式裏投げから片エビ固めで市来をフォール。市来はIWAジャパンでデビュー、96年にガイアジャパンに移籍しましたが退団し、この時はフリーで同じくガイアを退団していた中野知陽呂とターザン後藤の「革新浪士団」で試合をしていました。
第1試合ではOZアカデミー校長尾崎魔弓に生徒である天野理恵子&シュガー佐藤&永島千佳世の3人が挑んだ1対3ハンディキャップマッチ。さすがの校長も3人がかりでは敵わず12分55秒、天野がエビ固めで押さえ込んでのフォール勝ちとなりました。
翌98年には全女から分裂したネオ・レディース、アルシオンが相次いで旗揚げ。日本に女子プロレス団体が7団体あるという事態になり、観客も相対的に減少、98年12月にはアイドル人気でJWPを支えてきたキューティー鈴木が引退、99年2月には久住→日向あずみ、宮口→輝優優、天野理恵子→カルロス天野、本谷→美咲華菜と主力選手がリングネームを改名しましたが人気回復には至らず。
中華料理店の老舗である上野東天紅を「JWPホール」として定期戦会場にするなど新しい試みも見られました。99年2月28日、後楽園ホールで福岡が日向に敗れJWP無差別級王座から転落。敗れた福岡は3月に引退。
01年山本代表が退任。その後は篠崎清氏の1人代表で興行を開催していましたが、興行不振により活動休止、活動再会後はボリショイが団体の経営権を引き継ぎました。
17年にJWPは解散、後継団体としてボリショイはPURE−Jを旗揚げしています。ボリショイは19年4月21日に引退していますが、現在もPURE−Jの運営会社であるPURE DREAM株式会社の代表として活躍しています。
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