女子プロレスと横浜文化体育館は全日本女子プロレスを初め、各団体が「大場所」と言われるビッグマッチを開催していますが、残念ながら初期の女子プロレスはゴング、プロレス誌などのプロレス熱戦譜に記録が掲載されず、スポーツ紙も結果を載せていたのはディリースポーツ位で、東京スポーツにも結果は掲載されておりません。女子プロレスのプロレス熱戦譜が整備され、専門誌に登場するのは90年代に入ってからの話です。
全日本女子プロレスは68年4月に旗揚げ、古くは73年7月17日、横浜文体でジャンボ宮本&赤城マリ子組がサンディ・パーカー & マスクド・リー組に敗れWWWA世界タッグ王座から転落している記録がありますが、全女の神奈川県でのメイン試合場は川崎市体育館であり、83年5月7日、ジャガー横田がラ・ギャラクティカに敗者髪切りマッチで敗れた試合、86年2月15日ジャガーの引退セレモニー、
同じく91年1月11日のブル中野&井上京子組の獄門党vsアジャ・コング&バイソン木村組のジャングル・ジャックの敗者髪切りマッチでアジャとバイソンが負けて丸坊主にされた試合、92年11月26日、女子プロレスの歴史に残る全女vsJWP初の対抗戦、豊田真奈美&山田敏代組がダイナマイト関西&尾崎魔弓組を2−1で破ってWWWA世界タッグ王座を防衛した試合などは川崎市体育館でした。
そんな中で横浜文体で特筆すべき大会と言えば、話は前後しますが81年2月25日、全女横浜文体大会でジャッキー佐藤が横田利美(ジャガー)に「押さえ込み」で敗れWWWA世界シングル王座から転落した試合があげられます。「全女の世代交代はいつも突然、押さえ込みによって訪れる」というセオリー通りでした。
敗れたジャッキーは79年2月27日、日本武道館でマキ上田と敗者引退マッチで勝利し女子中高生を中心に絶大な人気を誇っていたビューティ・ペア解散後、単独エースとして孤軍奮闘していましたが、19歳の横田(ジャガー)に敗れ57年10月横浜生まれのジャッキーは23歳で引退。「25歳定年制」を守りました。
83年にはライオネス飛鳥&長与千種のクラッシュ・ギャルズが結成され、ビューティ・ペアブーム以来の女子中高生によるブームが発生しています。
90年、ユニバーサル・プロレス、W☆INGに全女の選手が参戦、インディーズ団体と試合内容でレベルの差を見せつけ、男性ファンが全女の会場に多数足を運ぶようになりました。クラッシュブームの時に「デラックス・プロレス」が女子プロレス専門誌になりましたが、週刊プロレスが女子プロレスを誌面でバックアップしています。
90年11月14日、横浜文体ではブルとアジャが金網ノーレフェリーデスマッチ(時間無制限エスケールール)で対戦。アジャは虫垂炎の手術をしたばかり、傷口が開くアクシデントが起きました。最後、ブルが伝説となった金網のてっぺんからのダイビング・ギロチンドロップでKO勝ち。週プロの表紙を飾りました。
セミファイナルはWWWA世界タッグ選手権試合(60分3本勝負)王者チーム北斗晶&みなみ鈴香の「マリンウルフ」に豊田真奈美&井上京子組が挑戦。2−1でマリンウルフがタイトル防衛に成功しています。
94年12月4日、横浜文体大会で「レッスル・マリンピアード94EX」が行われました。(観衆3,200人発表)この2週間前、11月20日、東京ドーム大会を開催したばかり。メインイベントは全女、JWP、LLPW、FMW4団体参加によるV☆TOP−WOMANトーナメントで北斗がアジャを破って優勝。優勝した北斗は引退を示唆する発言をして話題あつめた大会で、そのような背景を勘案して読んで頂けると幸甚です。
横浜文体大会メインイベントはアジャのWWWA世界シングル王座に堀田祐美子が挑戦。アジャの裏拳が炸裂、19分27秒、片エビ固めでアジャが勝ち王座防衛。しかし、「北斗ロス」に陥っていたアジャは「今後どうしたらいいかわからない」と不安を現すコメントをしています。
セミファイナルは東京ドーム大会でフリーのOGユニット「ライディーン・アレイ」として復帰を果たした飛鳥(他のメンバーはジャガー、バイソン)が京子とタッグを組み山田&貴子組と対戦。15分42秒、飛鳥がパワーボムからのエビ固めでフォール。翌95年の本格復帰を目指しました。
東京ドームでデビューした長谷川咲恵が変身した限定試合出場のマスクマン、ブリザードYUKIが登場、豊田とシングルマッチで対戦し30分時間切れ引き分けとなりました。
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