藤原組から派生したもう一つのU系団体「格闘探偵団バトラーツ」は96年4月13日、小田原市川東タウンセンター・マロニエホールで旗揚げ。石川雄規を代表に池田大輔、アレクサンダー大塚、田中みのる(稔)、臼田勝美、船木勝一(ショー・フナキ)、米山サトシ(モハメドヨネ)、小野武志らのメンバーで旗揚げ。レギュラー外国人としてカール・グレコ(マレンコ、コンティニー)が参戦。97年1月には生え抜き新人第1号の日高郁人がデビュー。
藤原組から派生した「兄団体」のパンクラスとは対照的にキック、サブミッション、スープレックスが柱ではありましたが相手の攻撃を空かさずに受ける「バチバチスタイル」を構築、第1次UWFに近いスタイルでした。
併せて、既存のプロレスとも強調、FMW、みちのくプロレス、大日本プロレスとも交流し柔軟な外交姿勢を見せました。また、代表の石川は67年生まれの「猪木チルドレン」世代、「燃える闘魂」ならぬ「燃える情念」をキャッチフレーズとし、猪木に対するリスペクトを常にアピールしていました。
団体旗揚げ当初は小田原、合宿所のあった越谷GAZAホールなど小会場を中心に興行、メイン会場にしていたTOKYO−FMホール(半蔵門、約300人収容)はほぼ毎回ソールドアウトでした。
98年11月23日には両国国技館に進出、「蘇るゴールデンタイム伝説」として昭和新日本プロレスのテイストを多分に盛り込んだ興行を開催、メインイベントでは石川が元WWFヘビー級王者、ボブ・バックランドを卍固めで破りB−CUP優勝。アニマル&ホークのザ・ロード・ウォリアーズも参戦しA大塚&Mヨネ組の「ラブ・ウォリアーズ」を撃破。
勢いのあったバトラーツでしたが横浜文化体育館での単独興行は解散までなく、99年10月17日(今から21年前の本日)みちのくプロレスとの合同興行「兄弟愛〜横浜純情編〜」での開催1回のみ。(観衆3,403人満員発表)
メインイベントは石川とザ・グレート・サスケ組の社長タッグが新崎人生&A大塚組の徳島タッグと対戦(プロレスルール)、「猪木チルドレン」を自認する社長タッグは「炎のファイター」のテーマ曲で入場してくる念の入れようでした。
試合は人生&A大塚が2人がかりでサスケを後方に投げるジャーマン、「眉山」を初披露して観客を驚嘆させ、25分27秒、A大塚がサスケをドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)でフォール。社長タッグは敗戦に終わっています。
セミファイナルは田中稔vsWWFから戻ってきたTAKAみちのくのバトラーツルールによる一騎討ち。WWF参戦前はパンクラスにも参戦(97年4月27日、東京ベイNKホール)し、山宮恵一郎に敗れたもののルチャ・リブレがベースの選手としては高い適応力を見せて評価を上げたTAKAはバトラーツスタイルでも田中と互角に渡り合い、19分26秒、キャメルクラッチ(ラクダ固め)でギブアップ勝ちを収めました。
全日本プロレス、新日本プロレスで活躍したTNTが参戦、池田と対戦し(プロレスルール)、8分12秒、毒霧からのエビ固めでカウント3を奪いました。
FMWのリングで誕生したインディペンデント・ワールド世界ジュニア・ヘビー級王座は96年5月5日、川崎球場でみちのくプロレス所属のTAKAみちのくが中川浩二を破ってみちのくへ流失、以後、TAKAはFMW、バトラーツ、みちのくプロレスの3団体を又にかけて王座防衛に成功、97年6月のメキシコ遠征でCMLLのエル・サタニコに敗れ一旦はベルトを手放すも帰国前に奪還。
同年末にTAKAはWWF入りの為タイトル返上。99年5月5日、FMW横浜文化体育館大会でFMWジュニア・ヘビー級王座として復活、田中稔がリッキー・フジを王座決定戦で破り、新王者となりました。王者田中は同年5月14日、バトラーツの札幌中島体育センターで新日本プロレス→SWS→フリー→UWFインターナショナル→キングダム→フリー→高田道場→フリーと流転のレスラー人生を歩んできた佐野なおき(直喜、友飛、巧真)に敗れ王座転落。
FMWの冬木弘道コミッショナーが既存のFMWにあったベルトを全て封印し、WEW認定のベルトを新設することになり、同王座は認定団体がなくなり、ベルトが個人に帰属することになった訳です。
この日佐野はカレーマン(クリストファー・ダニエルズ)の挑戦を受けて11分22秒、雪崩式バックドロップからの片エビ固めでフォール勝ちし王座防衛を果たしました。
96年12月27日、後楽園ホール大会を最後に活動休止したUWFインターナショナルですが、後継団体として「キングダム」が97年5月4日、国立競技場代々木第二体育館で旗揚げしています。
Uインターの代表だった高田延彦はヒクソン・グレイシー戦(当初は8月15日、東京ドームで実現と発表されたが、10月11日に変更された)を控えていた為不参加。安生洋二、高山善廣、垣原賢人、金原弘光、佐野友飛(直喜、なおき、巧真)、桜庭和志、松井大二郎、上山龍紀らが旗揚げメンバーとして参加。
しかし、高田が不参加だったことや、外国人大物を呼べなかったことで観客は回を追うごとに低下。桜庭は同年12月21日、横浜アリーナで行われたUFC−JAPANの大会で優勝、「プロレスラーは本当は強いんです。」と名言を残しPRIDE1で高田がヒクソンに惨敗を喫し、心をえぐり取られるような喪失感に陥ったプロレスファンの救世主となりましたが、それが団体の興行人気に還元されることなく、大量に離脱者を出しました。
98年3月20日に行われた横浜文体大会は活動休止前の興行となり、観衆1,200人発表と不入り。
最後まで団体に残ったのは安生一人となり、この日はメインイベントでマーク・コブラ・ホールと対戦、9分8秒、ダブルリストロックでギブアップ勝ち。
UインターとWARで抗争を展開していた因縁のキャプチャー主宰、北原光騎が弟子のニーハオ(MAX宮沢)を連れて助っ人参戦、北原はジェシー・ケリスを7分26秒、腕ひしぎ逆十字固めで破り、ニーハオはザ・セイントに15分判定負けとなりました。
キングダムは半年後の10月13日、北沢タウンホールで興行規模を縮小して再開、入江秀忠がキングダム・エルガイツとして小規模ながら団体として活動していました。
U系編の締め括りは初代タイガーマスクこと佐山聡が99年11月5日に横浜文体で開催した掣圏道(現在の掣圏新陰流)のSAプロレス興行。ここではプロレスマッチのみを紹介しておきます
初代タイガーマスクはバトラーツのA大塚とシングルで対戦、10分31秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち、前98年12月30日、UFO大阪城ホール大会で敗れた借りを返しました。
また初代タイガーマスクの直弟子にあたる4代目タイガーマスクは当時はみちのくプロレス所属(現新日本プロレス)でしたが、バトラーツの田中稔と組んで同じくバトラーツの石川&マッハ純二組と対戦、17分52秒、タイガーマスクが純二をパワーボムからのエビ固めでフォール勝ちしています。
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