冬木弘道が主導権を取ったFMWはデスマッチ路線を排除し自らがボスを務めるヒールユニット「チーム・ノーリスペクト」(邪道、外道、金村ゆきひろ、ミスター雁之助、中川浩二、非道)とハヤブサ、田中将斗、黒田哲広ら正規軍との抗争を中心にリング上は展開されました。
大仁田は98年11月1日、北九州市新日鉄大谷体育館大会終了後、「来年(99年)は新日本プロレス、全日本プロレスに勝負を挑む!」とFMWからの撤退を匂わすコメントを発し、11月18日、新日本プロレスの京都市体育館大会の休憩明けにリングに登場し引退していた長州力の名前を連呼して新日本プロレスへの殴りこみを敢行しました。
98年11月20日、横浜文化体育館(観衆5,900人超満員発表)では大仁田のFMWラストマッチが行われています。私はこの興行は生観戦しています。
大仁田はこの時既にFMWを離れ、大日本プロレス等に上っていたミスター・ポーゴと3年半ぶりに対戦しイスの上へのフェイス・クラッシャーから体固めで勝っていますが、この時既に新生FMWについていたファンは大仁田を「過去の人」扱いし、観客の反応も冷ややかでした。
この日のメインイベントはWWA世界ブラスナックル、インディペンデントワールド世界ヘビー級二冠王者のハヤブサに冬木が挑戦。20分11秒、冬木が地団駄ラリアットからの片エビ固めで勝ってベルトが移動、冬木が二冠王者となりました。
他には金村vsサブゥーvsワンマン・ギャングの3WAYマッチが行われ、サブゥーが金村、ギャングを連破して勝者となりました。
翌99年に入ると冬木の推進するエンターテインメント路線は杉作J太郎をライターに迎えた為かアダルト、お下劣感が強くなっていきます。正直、私はこの時代のFMWがあまり好きではなかったので、それほど身を入れて見てはいなかったのですが…
99年5月5日、大仁田時代は川崎球場大会開催が定番だった子供の日に横浜文体大会(観衆4,900人満員発表)を開催。二冠王者となった上にコミッショナーに就任、リング内外の実権を握った冬木は、理不尽大王の名にふさわしく正規軍に理不尽要求をしました。
この日組まれたハヤブサ&新崎人生(みちのくプロレス)組vs田中&黒田組の正規軍同士のタッグマッチでフォールを奪った選手がメインイベントで自分の持つ二冠王座に挑戦する権利を与えられることに。黒田がエビ固めではハヤブサを破り、挑戦権を獲得しました。
メインで黒田は冬木の二冠王座に挑戦しましたが、2試合目というハンディはあり、24分5秒に地団駄ラリアットからの片エビ固めで冬木が王座を防衛しています。
セミファイナルではFMWvsバトラーツの5対5イリミネーションマッチが行われました。FMW側は雁之助&大矢剛功&金村&保坂秀樹&非道組、バトラーツ側は社長でありエースの石川雄規&池田大輔&臼田勝美&モハメドヨネ&土方隆司組。最後は雁之助を大ちゃんボンバーからの片エビ固めで破った池田が1人残りでバトラーツに軍配が上がりました。
97年4月に大仁田が馬場にハヤブサの全日本プロレス参戦を頼んで実現して以来、同年9月28日、FMW川崎球場大会には小橋健太&マウナケア・モスマン組が参戦、11月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にはハヤブサ&人生組がエントリー、翌98年5月1日の全日本プロレス東京ドーム大会にはハヤブサが志賀賢太郎を入れたトリオながら馬場と6人タッグを結成。
99年1月31日に馬場が逝去、馬場没後初の興行となった2月13日、全日本の後楽園ホールでハヤブサ&人生組が本田多聞&泉田純組を破ってアジア・タッグ王座を獲得。横浜文体大会時点ではハヤブサ&人生組はまだ王座を持っていました。(6月4日、今回の横浜文体同様、この年老朽化の為取り壊しとなる為閉館が決まっていた札幌中島体育センターで、大森隆男&高山善廣組の「ノーフィアー」に敗れて転落)
馬場没後も交流は継続され、この日は全日本から菊地毅が参戦、中川とシングルマッチで対戦し、エビ固めでフォール勝ちしています。
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