66年、前65年末に力道山死後、日本プロレスの社長となった豊登が、会社の金を使い込んだとして社長の座を解任され、ハワイに飛んで第8回ワールド・リーグ戦に凱旋帰国予定だった猪木を口説き落とし、エースに据えて東京プロレスを設立。
10月12日、蔵前国技館で旗揚げ戦が行われ、猪木がジョニー・バレンタインにリングアウト勝ちを収めましたが、東京プロレスは66年中に2シリーズ開催しましたが、日本プロレスが「東京プロレスの興行を買ったプロモーターにはウチの興行は売らない」と圧力をかけ、
売り興行がなかなか組めず、また一度発表された興行の中止が相次ぎ2シリーズ目で早くも単独興行を行う資金が尽き翌67年1月からは同じ66年、日本プロレスを退職した吉原功、在米フリーのヒロ・マツダ、マツダの後輩に当たるミスター鈴木(マティ)らが中心になって設立した国際プロレスとの合同興行に活路を見いだすことになりました。
東京プロレス単独興行の2シリーズの中には横浜文化体育館での興行開催はなく、東京・国際合同興行となった「新春パイオニア・シリーズ」(国際にとっては旗揚げシリーズ)1月30日に横浜文体大会を初開催。(観衆3,000人発表)
当日はダブルメインイベントで猪木が前年Jバレンタインから獲得したUSヘビー級王座の防衛戦。1本目は18分7秒、反則で2本目は5分15秒、アントニオ・ドライバー(フロント・ネックチャンスリードロップ)からの体固めで猪木が2−0のストレート勝ちで王座防衛。
もう一つのダブルメインイベントはダニー・ホッジの持つNWA世界ジュニア・ヘビー級王座にマツダが挑戦。1本目は22分、ホッジが体固め、2本目は6分28秒、マツダが揺り椅子固め(バナナ・スプレッドから回転するオクラホマ・ヘイライド、後にテリー・ファンクが使うローリング・クレイドルとは別物)、3本目は6分13秒、両者リングアウトの引き分けでホッジが防衛、という記録が残っています。
しかし、東京プロレスと国際プロレスの協調路線も僅か1シリーズで頓挫。猪木は4月に日本プロレスヘ復帰。マツダ、豊登は国際に残りましたが68年1月からTBSの放送開始が決定。TBSが主導権を握るとマツダは撤退。
TBS体制になって2シリーズ目の68年1月31日、「ワールド・タッグ挑戦シリーズ」で1年ぶりに横浜文体が使用され、TWWA世界タッグ王者チーム、アル・コステロ&ドン・ケント組のザ・ファビュラス・カンガルーズ(ケントは2代目パートナー)がグレート草津&サンダー杉山組を2−0のストレートで破り王座を防衛しました。
しかし、このシリーズ途中で外国人ブッカーをしていたグレート東郷が「約束したギャラが支払われない」として参加外国人を全員引き揚げて帰国し国際プロレスと絶縁。外国人ルートを失った国際はヨーロッパから外国人を招聘。70年2月にはAWA世界ヘビー級王者であり団体オーナーのバーン・ガニアが初来日、AWAとの業務提携がスタートしています。
日本テレビ、読売巨人軍との繋がりで後楽園ホールがほぼ日本プロレスの独占であった為、国際プロレスは小規模の常打ち会場として横浜スカイホールを頻繁に使用していた為か、横浜文体での興行はTBS時代はさほど多くは開催がありませんでしたが、
71年4月2日には第3回IWAワールド・シリーズのテレビ収録大会が開催され、ビル・ロビンソンvsカール・ゴッチの夢の公式戦が実現し30分時間切れ引き分けとなっています。この日のメインイベントは杉山&ラッシャー木村組がモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)&マグナ・クレメント組を撃破しています。
72年1月27日にはテレビ放送しない金網デスマッチで国際プロレス最初で最後の参戦となった「ハワイの巨象」キング・カーチス・イヤウケアがストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。6,500人超満員発表の観客が詰めかけました。1月17日、四日市市体育館での通常ルールでの第1戦(61分3本勝負)では1−1から両者リングアウトの引き分けとなりましたが小林は1フォールも取れずいいところなくドローに。
金網デスマッチでの再戦では小林は大流血しましたが28分50秒、イヤウケアをKOし10度目の防衛を果たしています。後に小林も「あの時はお客さんが本当に入ってね…」と述懐しており、おそらく国際プロレスの横浜文体史上、最大の実数での観客を動員したと思われます。
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