第81戦 4月17日発売号●【予想】木村健吾、阿修羅・原の雪崩式ブレーンバスターを本人の試合より先に出して藤波に押し潰されて負ける。(81年新日本プロレス鹿児島県立体育館)【正解】第3回ワールド・リーグ公式戦、ペドロ・モラレスvs木戸修。(76年新日本プロレス津市体育館)【参考】2013年4月17日発売号は前田日明vs藤原喜明。(84年UWF蔵前国技館)
【解説】前回の予想が外れたので2週連続81年4月の新日本プロレスネタで勝負。もし当たっていれば76年全日本プロレスのアブドーラ・ザ・ブッチャーvsキング・イヤウケアの第4回チャンピオン・カーニバル公式戦を予想する予定でした。
東京12チャンネルのレギュラー放送がこの年の3月一杯で打ち切られ、窮地に陥った国際プロレスでしたが、4月18日に後楽園ホールで開幕する「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」にオクラホマ、ルイジアナ地区を拠点とするビル・ワットが主宰するMSWAで半年間の修行からヘビー級戦士として阿修羅・原が凱旋帰国。
原はマスコミ向けの公開練習で相手をコーナーポストに座らせ、セカンドロープから投げる新兵器「雪崩式ブレーンバスター」を初公開。東京スポーツ紙に採り上げられ、当時のインパクトは絶大なものがありました。
原は「アメリカでスコット・アーウィン(ジ・アステロイド、スーパー・デストロイヤー1号)が使っているのを見て自分も使ってみようかと思った。」とコメントしており、原もパクりと言えばパクりなのですが…
原の凱旋マッチが18日、1日前の17日、新日本プロレスは鹿児島県立体育館からのテレビ生中継。セミファイナルに組まれたのは藤波vs木村健吾のIWGPアジア・ゾーン予選。
藤波がトップロープに昇ったところ、木村健が東スポを読んでいたか?すかさず追いかけてコーナーへ。セカンドロープから藤波の身体を引っこ抜いての雪崩式ブレーンバスターにトライ、しかしこれを読んでいた藤波は空中で身体を反転させて木村健の上に乗り、そのまま押し潰してフォール。15分35秒、藤波が体固めで勝利。観客席からは失笑が起きています。
原の雪崩式ブレーンバスターが掲載された東スポ(鹿児島では九州スポーツ)をどの位の客が見て事前にこれを知っていたかは不明ですが、木村健吾は他人の技をパクって失敗してフォール負けを喫したとしてファン、関係者からは手厳しい評価を受けました。
このエピソードはすでに何回か書いており、日記を読んで頂いた方より「雪崩式ブレーンバスターはこうすれば潰せる」という国際プロレスに対しての嫌味かも知れない、とコメントを下さいましたが、当時の新日本プロレスであれば平気でやりかねないので、一理あると思います。
原は翌18日、後楽園ホールでの凱旋マッチではスティーブ・オルソノスキーを相手にこの技を成功させ、13分28秒、体固めでフォール勝ち。凱旋マッチを勝利で飾りました。
19年も多くの著名レスラーが亡くなりましたが、2月12日には元WWWFヘビー級王者「ラテンの魔豹」ペドロ・モラレスも亡くなっています。享年76歳。晩年はパーキンソン病を患っていたとの事です。
プエルトリコ出身でアメリカ西海岸地区のトップスタートして活躍、アメリカ武者修行時代の馬場に「32文ロケット砲」と呼ばれたドロップキックをコーチし、特訓に付き合ったという友情のエピソードがあります。
65年には3月にザ・デストロイヤーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得、ルーク・グラハムに破れ短期で王座を転落するも10月に2度目の戴冠。ヒスパニック系のヒーローとなりました。66年3月の日本プロレス「第8回ワールド・リーグ戦」に初来日。鮮やかなドロップキックを披露しファンを魅了。馬場とも対戦しています。
その後ニューヨークに転戦し71年2月8日、ニューヨークMSGでイワン・コロフを破りWWWF世界ヘビー級王座を獲得。(同年8月にニューヨーク地区のプロモーターであるビンス・マクマホン・シニアがNWAに加盟した為、「世界」の二字は同王座から削除された)73年12月1日、ペンシルバニア州フィラデルフィアでスタン・スタージャックに敗れるまで2年10か月王座を保持。
74年はビンス・シニアが新日本プロレスとの業務提携に乗り出そうとしていた時期でしたが、モラレスはブルーノ・サンマルチノ、ゴリラ・モンスーンのルートから5月の全日本プロレス「MSGシリーズ」に8年ぶりに来日。
ビンス・シニアから預かった(とされる)「MSG杯」を持参し、鶴田、デストロイヤー、サンダー杉山、高千穂明久、サムソン・クツワダらとMSG杯争奪戦を行いこれを守り抜き、シリーズ最終戦の6月13日、東京体育館で馬場とPWFヘビー級王座、MSG杯を賭けて対戦、2ー1で敗れ馬場にMSG杯を奪われました。
この時モラレスはゴング誌のインタビューに応え、「俺は馬場の団体以外に上がる気はない」とコメント。サンマルチノ、モンスーン同様、馬場との友情を優先させるかと思いきや、76年4月には一転して新日本プロレスの「第3回ワールド・リーグ戦」に来日。
この年のワールド・リーグ戦はモラレスを筆頭に前回、前々回準優勝のキラー・カール・クラップ、ビクター・リベラ、タワーリング・インフェルノ(ネイル・グアイ、前年初来日したスーパー・デストロイヤー)、ブッチャー・バション、ケン・マンテル、ラウル・マタらのこれまでにない豪華な外国人メンバーが集結しファンを喜ばせていますが、モハメド・アリ戦を控えた猪木がリーグ戦シードとなり、盛り上がりを欠く展開となりました。
この日の津大会はテレビ中継もなく、モラレスは2月に凱旋帰国した木戸修と公式戦で対戦7分57秒、体固めで手堅く勝利し番狂わせが起きた訳でもありません。試合のグラビアもなく4月2日、川崎市体育館での開幕戦の入場セレモニー写真が使われているのみでした。
この試合を採り上げる意図がよく理解出来ませんでしたが、前々回に続いてモラレスへのオマージュとしたいのであれば、やはり別の試合を選択すべきだったのではないでしょうか?
※対戦成績は81戦17勝64敗。
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