2017年9月6日〜2018年12月26日までの対戦成績は66戦16勝50敗。
第67戦 1月9日発売号●【予想】猪木vsウィリエム・ルスカ戦決定でタイガー・ジェット・シンが猪木を血ダルマに(76年新日本プロレス福岡九電記念体育館)【正解】バリー・ウィンダム&マイク・ロトンド、USAエキスプレス、日本初参戦(86年全日本プロレス岩国市体育館)【参考】2013年1月9日発売号は豊登、引退を表明。(70年国際プロレス)
【解説】73年5月に何の前触れもなく新日本プロレスのリングを襲撃したタイガー・ジェット・シン。73年11月5日には新宿・伊勢丹前で買物中の猪木、倍賞美津子さん夫妻を襲撃するなど狂気の沙汰を展開。74年6月26日、大阪府立体育会館でのNWF世界ヘビー級選手権試合では、猪木がシンの右腕を折るという恐怖のアクシデントを生みました。
75年2月、NWF本部はシンを挑戦者に指名して日本に送り込んで来ましたが、猪木は「挑戦者としての資格に欠ける」としてこれを拒否し、ニューヨーク州バファローにあるNWF本部にベルトを返上。
王者にベルトを返上されたNWFでは責任を取ってデビッド・ヘルマン(ディック・フェラルドマンと表記している文献も有り)会長が辞任。NWFでは特使として猪木の師匠であるカール・ゴッチを派遣、猪木にベルト返上を取りやめさせるよう説得にあたりましたが、猪木は「筋を通す」としてベルトは返上。その代わりシンと王座争奪二番勝負を行うことを了解しました。
第1戦は75年3月13日、広島県立体育館で行われ、猪木がシンの秘密兵器ブレーンバスターからカウンターの凶器入りナックルパンチの前に19分26秒、体固めでフォール負け。「挑戦者としての資格に欠ける」シンに王座を奪われてしまいました。
3月20日、蔵前国技館では新王者となったシンに猪木が挑戦。猪木はシンを鉄柱攻撃、ナックルパンチで流血させ試合を有利に運びましたが、19分1秒、両者リングアウトで逃げられ、シンが初防衛。NWF世界王座は海外流失となりました。
5月19日、カナダ・モントリオール・ポール・サウベ・アリーナでは猪木が再挑戦しましたが1-1から反則勝ちでタイトル移動せず。
6月26日、蔵前国技館でシンは「猪木の挑戦を受けるのはこれが最後」として3度目のリマッチ。1ー1から猪木がバックドロップ2連発でシンをフォール、ついにNWF世界ヘビー級王座を奪回しました。この時シンは勝者猪木の手を高々と上げて健闘を祝福しています。
この試合で猪木とシンの「抗争第一章」は完結したかに見えましたが、この年の暮れ、12月15日に猪木がニューヨークMSGに初登場(フランク・モンティを8分43秒、バックドロップからの体固めで破る)の際、観客席後方に姿を現し、また「代官山の猪木の自宅マンションに現れた」という情報もありました。
そんな状況でシンは76年1月2日、越谷市体育館で開幕した「新春黄金シリーズ」に来日、同シリーズ最終戦には2月6日、日本武道館の開催が決定。当時、日本武道館と言えばプロレス界にとってはワンランク上のハコであり、これまで行われたプロレス興行は、66年12月3日、日本プロレスの馬場vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル選手権試合、75年12月11日の全日本プロレス、国際プロレス、日本プロレス(団体は崩壊しており、名前だけ)合同の力道山13回忌追善興行の2回のみ。新日本プロレスでは勿論、初使用となります。果たしてどのようなカードを持って来るのか?
開幕戦でシンは星野勘太郎とシングルマッチを行い、正統派スタイルでの試合を展開。ロープブレークも綺麗に離れて観客席からはどよめきが起きました。4分23秒、反則を全く使わずエビ固め(スクールボーイ)でフォール勝ち。
猪木はその後のセミファイナルでシンの子分であるザ・ブルータス(今シリーズ途中からリングネームがブルータス・ムルンバに変更された)に対し、ナックルパンチの連発で流血させ9分34秒、ブレーンバスターからの体固めで勝利。
シンが入ってきて「俺はクリーンに闘っているのに猪木は反則を使って勝った」と抗議しまさに立場逆転。シンはこのままクリーンファイトを続けるかと思われましたが…。
1月7日、東京・日比谷の帝国ホテルにて記者会見が行われ、ミュンヘン五輪元柔道重量級、無差別級金メダリスト、オランダの赤鬼、ウィリエム・ルスカがプロ格闘家に転向、猪木に挑戦表明を行い2月6日の日本武道館で猪木と「格闘技世界一決定戦」で対戦することが発表されています。
これを聞かされたシンは烈火の如く激怒。新日本プロレス初の日本武道館大会のメインイベントは自分と猪木のNWF世界ヘビー級選手権試合であると思っていたところ、猪木に裏切られた。こうなればどんな手を使っても猪木をルスカ戦を前に壊してやると宣言。
1月9日の福岡九電記念体育館でのテレビ生中継では猪木とシンのシングルマッチが組まれました。メインレフェリーのミスター高橋が試合前のシンの暴行によりレフェリングが不可能な状況となり、代わって田中米太郎がレフェリーを務めました。
シンは先週とは打って変わり、反則攻撃を駆使して猪木を流血させ、場外でもコブラクローで猪木を絞め上げて13分26秒、両者リングアウトとなりましたが猪木はいいところなく終わっています。
昨年末まで連載をしていました「猪木とビンス」最終章ではビンス・マクマホン率いるWWFの全米制圧の為、過大なブッキング料を要求し、新日本プロレスと縁が切れた様を描いていますが、影響を受けたのは猪木の新日本プロレスだけではありません。
馬場の全日本プロレスも影響を受けました。84年11月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」に新日本プロレスから引き抜いたダイナマイト・キッド&デービーボーイ・スミスを参加させて、業界をおどろかせた馬場でしたが、キッド&スミス組は翌85年には1月、5月、11月と3回来ていますが、WWFと契約、86年1月の「ニューイヤー・ウォーズ」をキャンセルしてしまいました。
元々、キッド&スミスが契約していたカナダ・カルガリーのスチュ・ハート主催の「スタンビート・レスリング」はビンスの侵攻に白旗を上げ、84年にWWFに株式を売却。ところがキッド&スミスはビンスとの契約は拒み、独自の判断でミスター・ヒトの仲介により、全日本プロレスヘ。
地元のヒーローであるキッド&スミスが出ないWWFのカルガリー地区の興行は低調で集客も鈍く、ハート一家の次男キースはWWFから株式を買い戻し再建に出ました。
しかし、ビンスは高額のファイトマネーをキッド&スミスに提示し2人はついにWWFヘ移籍。キッド&スミスの来日がキャンセルされた為、バリー・ウィンダム&マイク・ロトンドのUSAエキスプレスがジム・クロケットのブッキングで来日。
ウィンダムは83年11月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にロン・フラーとのタッグで初来日し2度目の来日。ザ・デストロイヤーの母校の後輩、シラキュース大学レスリング部出身のロトンドはこれが初来日。
シリーズ序盤戦にはニキタ・コロフ&クラッシャー・クルスチェフのザ・ロシアンズが特別参加していましたが、USAエキスプレスはロシアンズと入れ替わりで来日。
来日第1戦となった1月9日、岩国市体育館では鶴田&石川敬士組と対戦、10分4秒、ウィンダムが石川をダイビング・ラリアットからの片エビ固めでフォールし初戦を白星で飾っていますが残念ながらノーテレビでした。
対戦成績は67戦16勝51敗。
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