85年「バーニングスピリット・イン・オータム」参加外国人選手紹介続きです。注目の新日本プロレス初参戦、開幕戦のみ特別参加のケビン・フォン・エリック&ケリー・フォン・エリックのエリック兄弟。
ケビンは81年5〜6月、全日本プロレス「スーパー・パワー・シリーズ」以来3年4か月ぶりの来日、ケリーは前84年5月、全日本プロレス「グランド・チャンピオン・カーニバルPART�供廾瞥茖映�5か月ぶりの来日となりました。
ケリーは前回の来日直前、84年5月6日、テキサス州ダラス・テキサススタジアムでリック・フレアーを破り第65代NWA世界ヘビー級王者として来日、5月22日、田園コロシアムで鶴田の挑戦を引き分けで退けた後、5月24日、横須賀市総合体育会館でフレアーのリターンマッチを受けて王座転落、18日天下に終わりました。
84年は2月10日にUNヘビー級王者として全日本プロレスに来日したデビッド・フォン・エリックが宿泊先の高輪東武ホテルで心臓発作の為(実際はコカインの多量摂取によるショック死)25歳の若さで急死。エリック一家の「終わりの始まり」となった年ですが、この年からビンス・マクマホンによる全米マット界制圧がスタート。
NWAはノースカロライナのジム・クロケットが中心となりAWAと協調、対抗していきましたが、7月にNWAジョージアの株主だったジム・バーネット、ジャック&ジェリーのブリスコ兄弟が株式をビンスに売却。
ダラスの有力プロモーターであるフリッツ・フォン・エリック(ジャック・アドキッセン)は「ウチは協力はしない、自分達だけでやっていく」と協調せず、この翌年の86年にはNWAのメンバーから外れ、WCWA(ワールドクラス・レスリング・アソシェーション)を設立し自前で世界ヘビー級王座を立ち上げることになります。
WWFとの関係が微妙なものになり、新しい外国人ルート開拓の必要に迫られた新日本プロレスは8月に坂口副社長が渡米してフリッツと会談を持ち、選手のブッキングを交渉しました。
野生的な風貌とは裏腹にフリッツはビジネス面は慎重派で72年に馬場が全日本プロレスを旗揚げした際、原章プロデューサーと共に渡米し、ブッキングの交渉をしましたが直ぐには飛び付かず、崩壊直前の日本プロレスに来日していますし、84年にテレビ東京が「世界のプロレス」を放送するにあたり、ビデオテープを買い付けに来た時も、当時ダラスを主戦場にしていたザ・グレート・カブキを呼び、「間違いない先か」と情報を収集してから取引開始しています。
坂口が交渉に来た時、フリッツは馬場に連絡を入れており、ジャパンプロレス勢の参戦で全日本プロレスのリングは飽和状態、外国人枠が目一杯だと言う話を聞かされた上で新日本プロレスと取引開始しました。
故に新日本プロレスはフリッツに足許を見られ、坂口は帰国後、「エリックの野郎、ふっかけやがってよー!」と怒っていたそうですが、日本勢が手薄になってしまった以上、フリッツの言い値で取引に応じたと思われます。
終盤戦特別参加のジャイアント・グスタブはカナダ出身の若手の巨漢レスラーで前歴もハッキリわかってはいませんでしたが、マクガイヤー・ブラザーズやグレート・アントニオと同じカテゴリの選手でした。
参加外国人の内、ブルーザー・ブロディ、バッドニュース・アレン、エリック兄弟以外は大剛鉄之介のブッキングによるものでした。
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