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2019年09月02日23:08

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猪木とビンス(514)最終章

74年6月25日、後楽園ホールで開幕した国際プロレスの「ビッグ・サマー・シリーズ」アンドレ・ザ・ジャイアントが序盤1週間に特別参加しています。

アンドレの前身は言うまでもなく国際プロレスに3度に亘って来日したモンスター・ロシモフ。ロシモフは72年5月の「第4回IWAワールド・シリーズ」が終了して帰国すると、吉原を通して70年に日本で知り合ったバーン・ガニアの伝手でカナダに渡り、モントリオールで試合を行っています。

そして73年にビンス・マクマホン・シニアのWWWFと契約。「世界の八番目の不思議」というキャッチフレーズでリングネームをアンドレ・ザ・ジャイアントに改名。世界の大巨人として売り出されていくことになります。

ビンス・シニアはアンドレを全米規模のスーパースターに育てようとWWWF地区だけではなく、プロモーターからの要請がありスケジュールが合えばどこにでも上げるというスタンスの契約にしていました。

アンドレとしてのデビュー戦は73年3月26日、ニューヨークMSGでバディ・ウォルフと対戦、9秒で勝利を収めました。

WWWFとの提携第1弾として74年2月22日、後楽園ホールで開幕の新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」に登場。3月15日、岡山武道館で猪木とノンタイトルながらシングル初対決を行い、アンドレのマネージャーであるフランク・バロアの介入はありましたが20分19秒、体固めで猪木を破っています。

既に全米のスーパースターとなっていたアンドレが古巣国際プロレスのピンチを聞きつけて助っ人として参戦。この時アンドレはマスコミに「ニューヨークとの契約はどうなったのか?」と聞かれ「大丈夫だ。ビンス(シニア)には俺が話を付けた」と豪快に笑い、「俺はギャラなんか要らない」と吉原を泣かせるような発言をしています。

インターネットのない時代、アンドレがどうやって国際プロレスの窮状を知ったのか?

先のビッグ・ファイト・シリーズの最終戦は3月19日、蔵前国技館。先日書いた国際プロレスを離脱したストロング小林が猪木とのNWF世界ヘビー級選手権試合が行われた日で、アンドレはセミファイナルで坂口とシングルで対戦し両者リングアウトとなっていますが、マイティ井上が親友アンドレに会いに控室を訪れており、S小林とはニアミス状態でした。

アンドレはM井上から国際プロレスの実情を聞き、スケジュールを調整して今回の友情参戦となったかと思われます。

6月25日、後楽園ホールはアンドレ参戦はありましたが1,500人発表と満員にはならず。アンドレはメインイベントでイワン・バルコフ(ダニー・バビッチ)と組んでグレート草津&M井上組と対戦。バルコフが2本奪われて2−1で草津&M井上組が勝って居ますが、この大会も東京12チャンネルが収録し7月1日の20時〜20時56分に録画中継。

7月5日、鹿児島県鹿屋市体育館大会でのラッシャー木村vsザ・キラー(ベンジ・ラミレス)のチェーンデスマッチ(R木村のKO勝ち)、M井上vsホースト・ホフマン(2−1でホフマンの勝ち)を収録してこちらも7月8日の同時間帯に録画中継。

9月からのレギュラー放送開始に向けて着々と準備が整い、国際プロレスは息を吹き返しました。
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