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2019年08月26日22:50

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猪木とビンス(508)最終章

73年1月6日、岐阜市民センターで開幕の全日本プロレス「新春ジャイアント・シリーズ」には国際プロレスは鶴見五郎、八木宏(剛竜馬)をレンタル。

続く2月10日、新宿区体育館で開幕の「ジャイアント・シリーズ結集戦」には開幕戦のみマイティ井上、寺西勇、八木、栄勇(スネーク奄美)を貸出。

開幕戦では吉原の意向もあってか、M井上vs寺西という好カードが組まれて、30分時間切れ引き分けとなりましたがファン、関係者から高い評価を受けました。吉原は「どこへ出しても恥ずかしくないカード」と鼻高々でした。

吉原の「敵に塩を贈る」作戦の意図はどのようなところにあったのでしょうか?日本プロレスが3派に分裂した時、一番内外ともにメンバーが充実していたにも関わらず業界のトップを取れなかった。

「日本プロレス憎し、猪木憎し」の思いが馬場と手を組んで日本プロレス、新日本プロレスを潰そうと考えたかと思います。

実際にノーテレビ時代の新日本プロレスは客も入っておらず、インディー団体と一緒で資金繰りは厳しく、当時は試合ビデオやグッズを大量に作って売ると言った時代ではなかった為、テレビ局からの放映権料が命綱で「テレビ放送がなければやっていけない」時代でした。

前にも書きましたが、72年の日本プロレス分裂時が国際プロレスの15年の歴史の中で最初で最後の「天下盗り」のチャンスでした。それが出来なかったのは結果論にはなりますが、「TBSとのリレーションが上手く構築されなかった」ことと「ストロング小林、グレート草津ら当時の国内で試合をしていた日本側メンバーの力量不足」この2つでしょう。

73年に入ると猪木、馬場が抜けて弱体化した日本プロレスを放送、視聴率が低下していたNETの三浦甲子二専務が日本プロレスの坂口征二、テレビなしで苦闘の日々を送っていた新日本プロレスの猪木を呼んで「お前たち、もう一緒にやれ」と日本プロレスと新日本プロレスの合併案を提案。

NETとしても猪木の存在は魅力的であり、猪木、坂口を主役とした中継で視聴率挽回をしたいところ。合併に至る詳細については他の連載で何回も書いて来ていますので割愛しますが、新日本プロレスを発展的解消とし、日本プロレスが存続、日本プロレス社長だった芳の里は退陣。猪木が社長、坂口が副社長という路線でほぼ決まっていました。

しかし、2月16日、後楽園ホールでの「ダイナミック・ビッグ・シリーズ」開幕戦で韓国に帰っていた大木金太郎が自分抜きで話が進められていたことに激高。また猪木体制となった後は猪木の下のポジションで試合をすることになる訳で、「育ててくれた日プロを売るような真似は出来ない」と反対。

坂口は小沢正志(キラー・カーン)、木村聖裔(たかし、健吾、健悟)、大城勤(大五郎)と田中米太郎レフェリーを連れて日本プロレスを退団、猪木の新日本プロレスに合流しました。

NETはこの時点で日本プロレスに見切りをつけ、4月から猪木、坂口の二枚看板となった新日本プロレスの中継に鞍替え。

テレビを失った日本プロレスは選手会の自主興行によりノーテレビで4月13日、大阪府立体育会館からフリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・クラップらを呼んで「アイアン・クロー・シリーズ」を開催しましたが4月20日の群馬県吉井町体育館大会を最後に興行活動を停止。

日本プロレスがなくなり、日本マット界は男子3団体時代となっていきます。
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